(1)三田称平の説

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明治十一年十月(一八七七)三田称平(黒羽町八塩)が出版した『那須国造碑考』前文に
 「碑ハ栃木県下下野国那須郡湯津上(ユツカミ)村ニアリ、高四尺四寸御影石ヲ以テ造ル、刻文八行十九字合一百五十二字、冠スルニ扁石ヲ以テス。故ニ世呼テ笠石碑ト称ス、積年荊剌榛莽ノ間ニ埋没ス、土人或ハ触犯スレハ必崇ヲ見ル、梅平村人大金重貞嘗テ此事ヲ以テ藩主ニ曰ス、元禄四年水戸義公光圀親ク来リ訪テ昔時那須国造ノ墓碑タルヲ知リ、新ニ境ヲ鋳テ之ヲ瘞メ、更ニ封築ヲ加テ旧碑ヲ壇上ニ安シ、宇ヲ建テ守戸ヲ置ク、然トモ其刻文煙欠シテ読ベカラサル者多シ、且ツ文義晦渋甚タ解シ易カラス曩者左々宗淳填訳アリ、又荒(新)井白石・鈴木石橋・藤塚塩亭・諸葛琴台・神林復所諸老各異考アリ、予講業ノ暇取テ之ヲ輯メ書史ニ拠テ参互校訂シ、其疑シキ者ヲ省テ竊(ヒソカ)ニ愚見ヲ加ヘ更ニ碑考ヲ作テ以テ後ノ君子ノ再覈ヲ竢ツ
下野黒羽  地山三田称平」(原文のまゝ)とある。こゝに、三田氏の考え方の一端が惨み出ている。

『那須国造碑考』三田称平著(部分)

 次に三田称平の碑考(抄)を示し、彼の見解の一端を示し参考に供する。
 □永昌元年己丑四月
 吾日本国ノ年号永昌ト云モノナシ 永昌ハ朱鳥ノ字虧欠シタル也ト旧説相承テ如此然トモ朱鳥元年ハ丙戌ニシテ己丑ニアラス 按唐書則天武后ノ永昌元年己丑正シク吾持統天皇三年ニ当ル蓋シ天武天皇崩シテ太子幼シ持統皇后ヲ以テ権リニ万機ヲ総フ故ニ年号ヲ更メ建テス 鈴木氏曰、日本紀以帰化ノ新羅人十四口于下野国賊賦田受禀此ニ拠レハ碑文或ハ新羅人ノ作ル所ニ係ル故に唐ノ年号ヲ用ヰタルヲ知ル
 □那須ノ直韋提(アタヒイテ)
 那須ヲ以テ氏トナス 直ハ尸(カバネ)也 姓氏録に所謂尸ハ朝臣(アソミ)、真人(マヒト)、宿弥(スクネ)、連(厶ラジ)、王(オホキミ)、公(キミ)、首(オビト)、直(アタヒ)、忌寸(イミキ)ノ類是也 姓氏ノ丁連呼ヲ以テ其ノ貴賎ヲ弁ス 白鳳十三年更諸氏之族姓八色ト此時ニ及テ直ノ称ナシ此ニ直ヲ称スルハ猶イマダ古称ヲ改ルニ及ハサル也 韋提ハ其人名也
 □仰テ惟レハ殞公ハ広氏ノ尊胤国家ノ棟材
 殞公ハ猶亡君ト云カコトシ、按ニ日本紀崇神天皇四十八年以豊城命(トヨキノミコト)崇神皇子令東国是上毛野(カミツケノ)君、下毛野(シモツケノ)君之始祖也、又按ニ景行天皇五十年以彦狭嶋王(ヒコサシマノオウ)東海道十五国ノ都督ニ是豊城命之孫也、然トモ到春日穴咋(カスカノアナトノ)邑病而薨ス明年記レテ三諸別王(ミモロワケノオウ)ニ曰汝カ父彦狭島ノ王不シテ任所ニ而早ク薨汝専ラ領セヲ東国三諸別ノ王欲成サント父ノ業早得善政是ヲ以テ東国久ク無事由是其子孫拾今在東国又按ニ姓氏録豊城命入彦命(イリヒコノミコト)四世大荒田別命(オオアラタワケノミコト)ノ後ヲ広木津(ヒロキツノ)公ト云碑文ノ広氏ハ即チ広来津公也 尊胤ハ凡種ニ非ルヲ云蓋シ韋提ハ其胤ニシテ職ヲ襲テ国造トナル故国家ノ棟材ト云