(2)蓮実長の説

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明治四十三年(一九一〇)蓮実長(たけし)(余瀬)が『那須国造碑考』を出版した。

『那須国造碑考』蓮実長著

 その巻頭文(抄)に、
 「第一版に公にした『那須国造碑考』は、専ら碑文の解釈をした。訓話的の述作でしたが、第二版は全くそれと異って、専ら史学の方面より観察し、『国造碑』そのものを当時代の上から考究したものでありました。」とある。
 第三版は「伝説に富める那須の古国」「建碑の起原と三古碑」「那須国造碑発見の由来」「国造碑の位置」「那須の地名考」「碑銘全文の大意」「碑銘の考証」の七章から構成されている。
 
『多賀城碑』は、天平宝宇六年(七六二)の建碑で、碑の高さ五尺五寸、幅二尺六寸、銘字百四十字である。
多賀城 去京一千五百里
    去蝦夷国界一百二十里
    去常陸国界四百十二里
    去下野国界二百七十四里
    去靺鞨国界三千里
此城神亀元年歳次甲子、按察使兼鎮守将軍、従四位上勲四等、大野朝臣東人之所置也、天平宝宇六年歳次壬寅、参議東海東山節度使、従四位上、仁部省卿兼按察使鎮守将軍、藤原恵美朝臣朝獦修造也
 天平宝宇六年十二月一日

 北関東の群馬・栃木の両県には、七世紀後半から八世紀前半にかけての石碑が四基みられる。
 『山の上(やまのえ)碑』(群馬県六八一年)『那須国造碑』(栃木県七〇〇年)『多胡碑』(群馬県七一一)『金井沢碑』(群馬県七二六)
『栃木県の風土と歴史』による。