那須国造碑の年号(永昌)と内容等から、この地域あるいは周辺に大陸から渡来した人々、または帰化したとみなされる人々の事実を知ることができる。
碑文によると、那須国造であった那須直韋提(いて)は、持統三年(六八九)に評督(こおりのかみ)(郡司)に任ぜられ、文武天皇四年(七〇〇)に死去すると、意斯麻呂(いしまろ)らによって建碑されたとある。
那須国を支配していた韋提という豪族は、直(あたい)という姓(かばね)を大和朝廷から与えられ、国造の地位についていたが、その血統は、新羅(しらぎ)系渡来人であるとみられている。下野国に新羅人が渡っていたとみることは、前項の『碑考蓮実長説』のなかで、琴台の説を引用しながら触れていたところである。
『日本書紀』持統天皇(六八七)三月乙丑朔の条に「丙戌(二十二日)、以二投化新羅十四人一、居二干下毛野国一賦(たまい)レ田受レ禀(かて)、使レ安二生業一」とある。また同三年(六八九)四月の条に「癸未朔寅(八日)、以二投化新羅人一、居二干下毛野一、」とある。さらに天武天皇五年五月戊辰朔の条にも「甲戌(七日)、下野国司奏、新部百姓、遇二凶年一、飢之欲レ売レ子而朝不レ聡(ゆるさ)矣」等とあることでも明らかであろう。
勿論この記事は、単に下野国来住の証であって那須国の居住とは限らない。しかし那須国造碑の考証と思いあわせると、那須国における新羅人の存在を高く示すものであろう。
この地方は東山道の要路であり、陸奥国との関係からも新羅人を導入した環境に恰好の地であろう。すなわち蝦夷地皇化の前進基地であったからである。しかも迎え入れられた渡来人は、那須国造碑の碑文が格調高いものから推そくして、文化的素養のある人々であったものと考えられる。
那珂川中流に古代文化が花と開いていたことは、これらの渡来人の寄与することが大きかったのかも知れない。
現在那須地方には、唐木田(からきた)・唐御所(からのごしょ)・白子などが残っていたり、前方後方墳という特殊な古墳築造の跡が遺されている。これらのことは、那須国への新羅人の渡来を物語る資料の一つとされている。
黒羽地方にも那須絹にまつわる機織の伝承などがあることから新羅人などのかかわりあいがあったものと考えられる。