〔続日本紀〕 四元明天皇
和銅元年(七〇八)三月丙午(十三日)、○中略 従五位下多治比真人広成為二下野守一、
(付載)
和銅元年(七〇八)三月丙午(十三日)、○中略 従五位下多治比真人広成為二下野守一、
(付載)
〔続日本紀〕 五元明天皇
和銅五年(七一二)正月戊子(十九日)、授二 ○中略 従五位下 ○中略 多治比真人広成 ○中略 並従五位上一、
和銅五年(七一二)正月戊子(十九日)、授二 ○中略 従五位下 ○中略 多治比真人広成 ○中略 並従五位上一、
〔続日本紀〕 十一聖武天皇
天平四年(七三二)八月丁亥(十七日)、以二従四位上多治比真人広成一為二遣唐大使一、従五位下中臣朝臣名代為二副使一、
天平四年(七三二)八月丁亥(十七日)、以二従四位上多治比真人広成一為二遣唐大使一、従五位下中臣朝臣名代為二副使一、
〔続日本紀〕十二聖武天皇
天平七年(七三五)三月丙寅(十日)、入唐大使従四位上多治比真人広成等自二唐国一至進二節刀一、
九年(七三七)八月庚申(十九日)、以二正四位上多治比真人広成一、為二参議一、
九月己亥(二十八日)、 ○中略 正四位上多治比真人広成為二中納言一、広成及百済王南典並授二従三位一、
天平七年(七三五)三月丙寅(十日)、入唐大使従四位上多治比真人広成等自二唐国一至進二節刀一、
九年(七三七)八月庚申(十九日)、以二正四位上多治比真人広成一、為二参議一、
九月己亥(二十八日)、 ○中略 正四位上多治比真人広成為二中納言一、広成及百済王南典並授二従三位一、
〔続日本紀〕 十三聖武天皇
天平十一年(七三九)四月戊辰(七日)、中納言従三位多治比真人広成薨、左大臣正二位嶋之第五子也、
天平十一年(七三九)四月戊辰(七日)、中納言従三位多治比真人広成薨、左大臣正二位嶋之第五子也、
国守は国内の民政・軍事・警察・裁判などのすべての全権を握る官で、介は次官であるが職掌は同じである。
下野国は、上国の国司であったので、定員は、守・介・掾・目各一人と史生三人であった。また『官位令』の示す上国の国守の相当位は、守が従五位下であった。
多治比真人広成は、黒羽藩主大関氏の遠祖である。大宝元年(七〇一)に正二位左大臣で死んだ嶋の第五子である。その後天平四年(七三二)、従四位上で遣唐大使に任命され、翌五年出発し、七年三月帰京し、従三位中納言まで昇って、天平十一年(七三九)四月薨去した。
(付)多治比系伝巻一
当家由来(抄)
抑当家ノ氏ハ丹治比姓ハ真人ニシテ多治比古王ノ後裔ニシテ人工二十九代[武小広国押盾天皇 又宣化天皇ト云] 之皇流ナリ 多治比古王[又名多治比彦王] 父ハ十市王ト云 十市王ノ父ハ上殖葉皇子ナリ 上殖葉皇子[一名椀子ト云] ノ父ハ宣化天皇ナリ 母ハ橘仲皇女[仁賢天皇ノ皇女也]第四ノ皇子ナリ第一ハ不姫皇女[欽明帝ノ皇后敏達帝ノ母也]第二小石姫皇女第三倉稚綾姫皇女第四上殖葉皇子第五火焔皇子[椎田君ノ祖也]多治比古王生ノタ処杖(いたどり)ノ花忽ニ飛テ産湯ノ釜中ニ入テ浮ム 其湯沐ノ其瑞ヲ以テ即号多治比古王ナリ 成長ノ後カタク謙退シテ奏聞ヲ歴テ姓氏ヲ求ム 依是賜姓為多治比公以多為シテ其冥感ノ瑞ノ旧意ヲ存サシム 歴世天長九年壬子四月二十四日勅シテ多治比ノ三字ヲ改テ丹治ノ二字ト為ス
抑当家ノ氏ハ丹治比姓ハ真人ニシテ多治比古王ノ後裔ニシテ人工二十九代[武小広国押盾天皇 又宣化天皇ト云] 之皇流ナリ 多治比古王[又名多治比彦王] 父ハ十市王ト云 十市王ノ父ハ上殖葉皇子ナリ 上殖葉皇子[一名椀子ト云] ノ父ハ宣化天皇ナリ 母ハ橘仲皇女[仁賢天皇ノ皇女也]第四ノ皇子ナリ第一ハ不姫皇女[欽明帝ノ皇后敏達帝ノ母也]第二小石姫皇女第三倉稚綾姫皇女第四上殖葉皇子第五火焔皇子[椎田君ノ祖也]多治比古王生ノタ処杖(いたどり)ノ花忽ニ飛テ産湯ノ釜中ニ入テ浮ム 其湯沐ノ其瑞ヲ以テ即号多治比古王ナリ 成長ノ後カタク謙退シテ奏聞ヲ歴テ姓氏ヲ求ム 依是賜姓為多治比公以多為シテ其冥感ノ瑞ノ旧意ヲ存サシム 歴世天長九年壬子四月二十四日勅シテ多治比ノ三字ヲ改テ丹治ノ二字ト為ス
一、多治比古王ニ一子アリ志摩ト云 天武天皇十一年壬午二月二十一日筑紫大宰ヨリ帰朝シ貢大鐘同十二年癸未正月筑紫ヨリ朝廷ニ拝シ三足雀ヲ貢ス 同十三年甲申十月姓ヲ賜真人テ氏長者トナル 持統天皇三年己丑九月二十七日増封戸左大臣ニ任シ正叙ス 同四年庚寅正月朔大嘗会ヲ行ハル其二日公卿百寮朝庭ニ拝賀シ時丹比志摩真人ト布勢御主人朝臣ハ当時諸臣ノ司ナルヲ以テ奏慶賀コトヲ勅セシメラル
文武天皇大宝元年高年ノ功臣トナルヲ以テ寿杖及ヒ輿壱ヲ賜テ正二位ニ叙ス 同年七月薨ス 行年七十八 文武天皇勅カツテ右少弁波多広足治少部輔大宅金方等ヲ遺シテ喪事ヲ監護セシメラル 其後亡霊ヲ河内国丹比郡祭之 反正天皇多治比古王ニ合祭シタマヒテ丹比神社ト号ス 承和十四年十二月十二日丹比神社ニ始テ従五位下ヲ授ク 嘉祥三年十月従五位上ニ叙テ貞観元年正月授正五位下 同年秋七月十四日奉神宝幣帛丹穉真人縄主ヲ神使トナス 志摩真人ノ室ハ家原氏ノ娘ナリ 夫存スルノ日為国家ニスルノ道ヲ相勤テ貞婦ノ道ヲ尽シテ夫ニ仕ヘ夫薨スルノ後固守テ愈貞節ノ操ヲ立テ同墳ノ意アリ 和同五年九月詔シテ彼貞烈感歎セシメラレ賜食邑五十戸六男アリ
長子ヲ池守ト云 元明天皇ノ和銅元年民部卿ニ任シ従四位下ニ叙ス 平城ノ官司長官トス 同七年従三位ニ叙ス 霊亀元年太宰師トナス 養老元年綾絹〓綿布ヲ賜テ善政ノ化ヲ褒美ス 同二年中納言ニ遷リ同五年大納ニ転任ス 同七年正二位ニ叙ス 神亀元年封戸ヲ益テ賜フ 同二年賜寿杖 同四年従二位ニ昇進シ天平一年九月薨
次男ヲ水守ト云 和銅三年右京大夫ニ任シ従四位下ニ叙ス其後宮内卿ニ転シ同四年薨
三男ヲ家野王ト云 従四位下ニ叙シ鋳銭ノ長官トナス
四男ヲ県守ト云 和同四年従五位上ニ叙シ霊亀元年造宮内卿ニ任シ従四位下ニ叙ス 同二年為遣唐使 同三年帰朝ス
養老三年正四位下ニ転ス 同四年持節征夷将軍ニ任ス 同五年東夷ヲ鎮テ帰リ中務卿ニ任ヲ転ス 同六年従三位ニ昇進シ天平三年政事ヲ参議シ民部卿ニ叙ス 同四年中納言ニ遷テ山陰道ノ節度使ニ拝セラル 同六年正三位ニ昇リ同賜寿杖 同九年薨
五男ヲ広成ト云 和銅五年従五位下ニ叙爵シ神亀元年従四位下ニ遷ル 天平四年遣唐使トナル 同五年節刀ヲ賜入唐 同六年帰朝ノ時海上ニ暴風ニ逢テ多称嶌ニ漂着ス 同七年三月ニ至テ朝廷ニ帰ルコトヲ得タリ 其年正四位上ニ転任ス 広成文学ヲ好ニ因テ唐上ニアル時泉石癖ニアリ唐玄宇皇帝称丹穉真人シテ一歳ノ間唐ノ朝廷ニアリ紫霞丹ノ法ヲ得テ[紫霞延年丹ハノ薬]帰朝ス 其後丹穉ヲ止テ多治比ト改メ旧ヲ用ユ 同九年国政ヲ参議シテ中納言ニ任シ従三位ニ昇進ス 同十三年式部卿ノ事ヲ兼任ス 同十一年正月十三日[一説云二十四日] 薨
六男ヲ広足ト云 養老元年美濃行宮使ヲ任造ス後上総武等ノ守ヲ歴テ皆政績アリ 天平十八年刑部卿ニ任ス 同十九年兵部卿ニ転任シ従四位上ニ叙ス 天平勝宝元年正四位上ニ叙シ中納言ニ任ヲ転 同二年従三位ニ進ミ同九年子姪等ノ逆当ニ罪セラレテ免職就第天皇宝字四年散位ヲ以テ薨
長子ヲ池守ト云 元明天皇ノ和銅元年民部卿ニ任シ従四位下ニ叙ス 平城ノ官司長官トス 同七年従三位ニ叙ス 霊亀元年太宰師トナス 養老元年綾絹〓綿布ヲ賜テ善政ノ化ヲ褒美ス 同二年中納言ニ遷リ同五年大納ニ転任ス 同七年正二位ニ叙ス 神亀元年封戸ヲ益テ賜フ 同二年賜寿杖 同四年従二位ニ昇進シ天平一年九月薨
次男ヲ水守ト云 和銅三年右京大夫ニ任シ従四位下ニ叙ス其後宮内卿ニ転シ同四年薨
三男ヲ家野王ト云 従四位下ニ叙シ鋳銭ノ長官トナス
四男ヲ県守ト云 和同四年従五位上ニ叙シ霊亀元年造宮内卿ニ任シ従四位下ニ叙ス 同二年為遣唐使 同三年帰朝ス
養老三年正四位下ニ転ス 同四年持節征夷将軍ニ任ス 同五年東夷ヲ鎮テ帰リ中務卿ニ任ヲ転ス 同六年従三位ニ昇進シ天平三年政事ヲ参議シ民部卿ニ叙ス 同四年中納言ニ遷テ山陰道ノ節度使ニ拝セラル 同六年正三位ニ昇リ同賜寿杖 同九年薨
五男ヲ広成ト云 和銅五年従五位下ニ叙爵シ神亀元年従四位下ニ遷ル 天平四年遣唐使トナル 同五年節刀ヲ賜入唐 同六年帰朝ノ時海上ニ暴風ニ逢テ多称嶌ニ漂着ス 同七年三月ニ至テ朝廷ニ帰ルコトヲ得タリ 其年正四位上ニ転任ス 広成文学ヲ好ニ因テ唐上ニアル時泉石癖ニアリ唐玄宇皇帝称丹穉真人シテ一歳ノ間唐ノ朝廷ニアリ紫霞丹ノ法ヲ得テ[紫霞延年丹ハノ薬]帰朝ス 其後丹穉ヲ止テ多治比ト改メ旧ヲ用ユ 同九年国政ヲ参議シテ中納言ニ任シ従三位ニ昇進ス 同十三年式部卿ノ事ヲ兼任ス 同十一年正月十三日[一説云二十四日] 薨
六男ヲ広足ト云 養老元年美濃行宮使ヲ任造ス後上総武等ノ守ヲ歴テ皆政績アリ 天平十八年刑部卿ニ任ス 同十九年兵部卿ニ転任シ従四位上ニ叙ス 天平勝宝元年正四位上ニ叙シ中納言ニ任ヲ転 同二年従三位ニ進ミ同九年子姪等ノ逆当ニ罪セラレテ免職就第天皇宝字四年散位ヲ以テ薨
二、広成ニ二子アリ 長男ヲ家範ト云 次男ヲ家隆ト云 内大臣ニ任ス 家範ノ一子貞成ハ従五位上ニ叙シ杢頭ニ任ス(原文のまゝ)注、大関氏の『丹治姓説』に作為がみられるといわれている
(『創垂可継』多治比系伝巻一による)