各国は郡・里に細分され統治機関として国府(こくふ)と郡衙(ぐんが)が設けられた。『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』(承平年間成立)によると下野国には足利・梁田・安蘇・都賀・寒川・河内・芳賀・塩谷・那須の九郡があり、国府は都賀郡に置かれていた。そして律令制下の徴税や行政伝達は国府や郡衙の機関を通じて実施された。
『戸令(こりょう)』によると戸数五十戸を一里とし、里ごとに里長一人を置いた。里の上に郡がある。そして二十里以下十六里以上が大郡であった。なおこの里は霊亀元年(七一五)に郷となり、郷の下に新しく里が設けられた。
那須郡の郷は、『和名類聚鈔』(康保四年九六七)によると、次の通りであった。
『和名類聚抄』(高山寺本)
(『栃木県史』による)
那須(なす)(余瀬郷付近か)・大笥(おおけ)(烏山町大字大桶)・熊田(南那須町大字熊田・方田(かただ)(黒羽町大字片田)・山田(やまだ)(馬頭町大字大山田・下郷)・大野(おおの)・茂武(むも)〔武茂か〕(馬頭町大字健武)・三和(みわ)(小川町大字三輪)・全倉(黒羽町大字河原付近とみられる。「田の倉」とする説もある。)・大井(おおい)・石上(いわかみ)(湯津上村大字湯津上)・黒川(くろかわ)(那須町大字伊王野付近)
(注)郷名のよみ方、現在地の比定は必ずしもすべてが確実な根きょがあると