租は、大宝令の規定によると一段から二束二把の稲を出すことになっていた。
(注)当時地味のよい上田の収獲稲は一段当たり五〇束で租率三パーセントである。実際はこれを上廻ったという。
調(ちょう)は、諸国の産物を朝廷に納めたものである。主として絹・絁(あしぎぬ)(品質のよくない絹)、布(麻布)などの布帛(ふはく)類を納めた。ほかに調雑物(鉱産物・塩・水産物などの特産物)・調副物(そえもの)(植物性の染料や紙、油など)の貢納品があった。下野国からの調物として「緋帛(ひのはく)五十疋、紺帛六十疋、黄帛五十疋、橡(つるばみ)の帛二十五疋、施二百疋、紺布八十端、縹(はなだの)布十五端、榛(はりの)布十端」(『康保四年(九六七)延喜式』規定)の記事がある。
また別の記事に交易雑物の例として「下野国布一千四百卅六端、商布七千三段、履料牛皮七張、洗革百張、鹿角十枚、席(むしろ)八百枚、砂金百五十両、練金八十四両、紫草十張、儡子四合(以下略)」がみられる。
庸(よう)は一年のうち十日間、歳役(さいえき)することをたてまえとして代わりに布を納める制度である。正倉院御物に「下野国那須郡熊田郷□子部□□調布一端長四丈二尺」の墨銘のある調庸布が残っているという。また御物のなかに矢竹があり、納胡箭竹刻銘「下毛野那須郷〓二」があるという。この矢竹の産地を余瀬の直篦に因んでこの土地を産地と推定した郷土史家もある。
農民の労働そのまま徴発する雑徭(ぞうよう)の制度があった。最高限度が六十日であった。これは大きな負担となっていた。
『軍防令』によると畿内七道の諸国は、管下の正丁の三分の一を兵士として徴発し軍団に所属させた。さらにこの中から衛士(えじ)、防人(さきもり)に徴発されることもあった。