二 条理遺構

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 千年以上も前に拓(ひら)かれた耕地が、条理の遺構として、現在も生き続け、その遺構の分布は畿内を中心に、瀬戸内海周辺、北九州、越前、濃尾の主要平野にみられるという。
 下野国の各郡の状況は、都に近く畿内の文化の流入する西部と南部の大河川の沿岸に比較的広く整った遺構が認められ、北部や東部にはあまり存在せず遺構も判然としない。しかも古墳や寺院跡などの古代遺跡の近隣にあるという。
 那須郡は、那珂川が中央から南に流れ、その両岸に河岸段丘が発達している。方格地割が那珂川左岸の黒羽町北滝と片田に見られる。片田は那須十二郷の一つ『方田』と称した所である。御亭山地の沢水を利用し、溜を設け水田を開いたものとみられる。
 ここは那珂川の河床からあまり高くなく、湯殿・上山田などの集落は自然堤防上にあり、条理水田はその後背地にある。
 東沢の山地から小手沢をはじめとする沢からの土砂の堆積が急速で、山よりは沢の出口を中心に等高線状を半円形を描く地割となって乱れている所がある。
 北滝地内に六世紀末築造とみられる二段築造の古墳が現存している。また片田の温泉神社の本殿は、古墳頂を削平した地に建立されたものとみられている。
 北滝・片田地内の字名をみると条理制が施かれていた頃を思わせるものがある。横枕・沓形・一丁町など多彩である。
 しかし、北滝・片田にみられた条理遺構も、最近圃場整備のためその全貌を消滅してしまった。今は古い航空写真か、地籍図等により追跡するほか、往時を偲ぶよすがはない。
 片田の対岸湯津上村には、那須国造碑・上侍塚古墳・下侍塚古墳などがある。
 大陸と密接な関係を持っていたこの地域に、整然とした条理は残っていないことは意外である。ただ西根と大河内とを結ぶ線を西の線として、条理地割というには方格が顕著でないが、ある程度の規則性を持った土地割がなされていたものといえるかも知れない。
(『栃木県史』通史編古代二による)