三 農民の生活

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 当時の農民は国家から、口分田(くぶんでん)の班給を受け、その耕作に当っていたが、墾田を持つ者もあった。富農層のなかには、農村社会の内部に根強くその力を持つ者もみられた。しかし、当時は農業技術が低く、災害に際しての復起能力も乏しかったので、貧窮農民の数が多く、種々の事情から富農層の私的労働力へと転化していくものがあった。
 耕地には水田・陸田・園地(えんち)などがあった。水田は稲の栽培地、陸田(畠)は麦・粟・稗(ひえ)・豆等の栽培地、園地は桑を主体に蔬菜(そさい)類等も栽培された。紅花(べにばな)・麻・芥子(けし)などのほか、蒜(にんにく)・菲(にら)・葱(ねぎ)・薑(はじかみ)・(ショウガ)・蕗(ふき)・瓜(うり)・芋(いも)等の類も栽培していたものとみられる。
 農業経営の中心は、水田であった。陸田は用水便の悪い所か、河川の堤防沿い等に設けられていたとみられる。
 織物は麻布が一般的であったが、絹製品の生産もすすめられていた。黒羽の御亭(こてや)地方(注)は、那須絹の伝承地として知られている。園地に桑の栽培がみられ、養蚕が営まれ、絹織物の生産がなされ、貢納もみられたものと推察される。なお養蚕や桑作の技術は渡来人によって広められたとの説がある。
(注)『那須絹』の伝承地御亭山の麓に野上温泉神社がある。御亭(屋)綾織御前を祭るという。往古は綾都比(綾問ともいう)の神社である。(その本社であるかどうかは不詳である)式外社の『綾都比神』については『三代実録』元慶三年(八七九)の条に「三月九日、己亥、授下野国正六位上綾都比神従五位下」とある。なおこの社は、綾織御前・麻御前などの五竜女を祭るとも伝え、山号を五竜山という。(『創垂可継』による。)

 律令下の農民は、租・庸・調・雑徭(ざつよう)などのほか、兵役の義務が課せられていた。地方の軍団に属し、訓練をうけたほか、衛士(えじ)や防人(さきもり)として国防の任にあたったものがある。下野国の火長であった今奉部与曽布(いままつりべのよそう)が詠んだ歌に
 「祁布与利波 可敝里見奈久弖 意富伎美乃 之許乃美多弖等 伊埿多都和例波」
 (今日よりは顧(かへり)みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つわれは)

 があり、また那須郡の上丁大伴部広成が詠んだものに次の歌がある。
 「布多富我美 阿志気比等奈里 阿多由麻比 和我須流等伎伱 佐伎母里伱佐美」
  (ふたほがみ悪(あ)しけ人なりあた病(ゆまひ)わがする時に防人にさす)

 東国の防人制は、天平宝宇元年(七五九)に廃止された。

条理遺構がみられる北滝・片田の景観