耕地には水田・陸田・園地(えんち)などがあった。水田は稲の栽培地、陸田(畠)は麦・粟・稗(ひえ)・豆等の栽培地、園地は桑を主体に蔬菜(そさい)類等も栽培された。紅花(べにばな)・麻・芥子(けし)などのほか、蒜(にんにく)・菲(にら)・葱(ねぎ)・薑(はじかみ)・(ショウガ)・蕗(ふき)・瓜(うり)・芋(いも)等の類も栽培していたものとみられる。
農業経営の中心は、水田であった。陸田は用水便の悪い所か、河川の堤防沿い等に設けられていたとみられる。
織物は麻布が一般的であったが、絹製品の生産もすすめられていた。黒羽の御亭(こてや)地方(注)は、那須絹の伝承地として知られている。園地に桑の栽培がみられ、養蚕が営まれ、絹織物の生産がなされ、貢納もみられたものと推察される。なお養蚕や桑作の技術は渡来人によって広められたとの説がある。
(注)『那須絹』の伝承地御亭山の麓に野上温泉神社がある。御亭(屋)綾織御前を祭るという。往古は綾都比(綾問ともいう)の神社である。(その本社であるかどうかは不詳である)式外社の『綾都比神』については『三代実録』元慶三年(八七九)の条に「三月九日、己亥、授二下野国正六位上綾都比神従五位下一」とある。なおこの社は、綾織御前・麻御前などの五竜女を祭るとも伝え、山号を五竜山という。(『創垂可継』による。)
律令下の農民は、租・庸・調・雑徭(ざつよう)などのほか、兵役の義務が課せられていた。地方の軍団に属し、訓練をうけたほか、衛士(えじ)や防人(さきもり)として国防の任にあたったものがある。下野国の火長であった今奉部与曽布(いままつりべのよそう)が詠んだ歌に
「祁布与利波 可敝里見奈久弖 意富伎美乃 之許乃美多弖等 伊埿多都和例波」
(今日よりは顧(かへり)みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つわれは)
(今日よりは顧(かへり)みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つわれは)
があり、また那須郡の上丁大伴部広成が詠んだものに次の歌がある。
「布多富我美 阿志気比等奈里 阿多由麻比 和我須流等伎伱 佐伎母里伱佐美」
(ふたほがみ悪(あ)しけ人なりあた病(ゆまひ)わがする時に防人にさす)
(ふたほがみ悪(あ)しけ人なりあた病(ゆまひ)わがする時に防人にさす)
東国の防人制は、天平宝宇元年(七五九)に廃止された。
条理遺構がみられる北滝・片田の景観