山岳に対する宗教的態度を一括して山岳崇拝という。古代の人々は、天界に神が御座(おわ)しまし、山頂に降臨されると考え、天と人界とを結びつける山頂を神聖視してきた。特に農耕社会の成立とともに、かんがい用水の供給源たる山を水分神(みくまりのかみ)の篭るところとして崇敬していた。
山そのものが人格化され、力あるものとされていた。山の量感、秀麗さ、厳しさ、岨(けわ)しさなど、畏敬と崇敬の要素が同居しているところが山岳である。そして、山奥には呪力と、託宣に長(た)けたものがいたと信じられていたのである。
平安時代になると次第に神仏習合の霊地として、仏法修業の徒によって山頂登拝が盛んになってきた。この仕方は、苦行を積むことによって、山の神々の霊の力が、修業者の身に宿すものと信じられていたことによる。
勝道上人は、神護景雲元年(七六七)四本龍寺(後に輪王寺となる)を拠点として、「いのちをすてて、道に殉(じゅん)ずる思い」で、数次の男体登頂を試みた。
「神々よ、知るあらば、わが心を察し給え。われ、写し画くところの経典と仏像を頂上に佐え、神々を祭り、神々のお力により、世の人々の幸福をまねこうと心の中深く思い定めているのである。願わくば、わが願いを達するよう助け給え。われ、もし、山頂に到らざれば、菩提に到らず」『栃木県の風土と歴史』による。
これは『性霊集』に収めてある空海の「沙門勝道歴山水瑩碑」の中にある訳文であるが、勝道は、延暦(えんりゃく)元年(七八二)登頂に成功し、菩提に入られた。上人は、山頂に権現をまつり、山麓に中禅寺を創建し、千手観音の尊像を刻まれた。平安期に坂上田村麿の祈誓があり、弘仁八年(八一〇)一山の総号満願寺が下賜され、空海の来山により、密教の伝承をみている。中世には光明院と号し、日光山三社権現信仰を伝えてきた寺である。
古峯(ふるみね)神社(鹿沼市)は、「古峰ケ原(こぶがはら)神社」として知られ、その創建は明らかでないが、祭神日本武尊の家臣藤原隼人が起したと伝えている。この付近は古くから修験の地として知られ「深山巴の宿(じんせんともえのしゅく)」がある。こゝは勝道上人が、日光開山に先立ち、剣ケ峰(横根山)で難行・苦行した中心道場であるという。
修験道は、元来日本固有の山岳信仰に根ざし、密教を媒介として形成された宗教の一派で、護摩をたき、呪文(じゅもん)を誦し、祈祷を行ない、山中に入って難行苦行を行ない、神験を修得することを業とした。役の小角(えんのおづぬ)を開祖とする。
また修験者は蔵王菩薩を護持しするものとして信仰する傾向になり、やがて中世になると山伏の道も確立されていった。