八溝嶺神社は、景行天皇の御代、日本武尊が東征に際し創建したと伝えている。その後桓武天皇の延暦十七年(七九八)に坂上田村麻呂が登頂し、宝剣一口を奉納し凱勝を祈ったという。
八溝嶺神社から少し山を下った所に、日輪寺がある。こゝは、天武天皇の十一年(六八二)の頃、役小角が諸国巡錫に際し、当山を廻峯し、神威を感じ、山腹に社殿を築き十一面観音を安置したところで、永延年中(九八七~八九)に坂東二十一番の札所となった。八溝山中には修験者が活躍したことに因む伝承が数多く残されている。
八溝嶺神社
八溝嶺神社の鳥居
神額「八溝山」(南方)
八溝山の一の鳥居(両郷)
古代の人々は、浄衣に身をきよめ六根清浄を唱えながら登拝し、密教の修業を積み、さらに五穀豊饒と世の平安を念じたのである。
八溝山麓の東山雲巌寺は、崇徳院の御宇、大治年中(一一二六~三一)初叟元和尚が開基していたところであるが、この地はもと諸宗が雑居していたところである。東山の鎮守「熊野権現」について『那須拾遺記』につぎの記事がみられる。
「八溝の主、性(勝)願は、仏国の弟子となり、仏道修行いたしけるが、わが領する所の山川等七里の所を仏国に奉り、その余の財宝惜しむことなく三宝へ捧げ真実に行いける仁なり。終に神と現ず、すなわちこの寺(雲巌寺)の鎮守、熊野権現の社これなり。」
このことはこの地方が高峰顕日(こうほうけんにち)(仏国(ぶっこく)国師)により、雲巌寺が八溝山の麓黒羽の地に開山され、新しい仏教の灯がともされるまで修験道などが盛んであったことを示している。