(三) 教育

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 わが国の学校の起源を推定すると、『懐風藻』の序の中に天智天皇(六六二―六七〇)の近江朝の時代に既に学校の存在していたことが記されている。また、『日本書記』によると、天武天皇四年(六七五)の記述の中に「大学寮」の名も見えている。しかし、以上の時代の学校の詳細については明らかでない。
 我が国古代の学校制度は、大宝元年(七〇一)制定の「大宝令」の学制によって初めて定められた。これによれば、大学寮には事務官の教官を置き、学生の定員は四千人とし、入学資格は五位以上の子孫および東西史部(やまとかわちのふひとべ)の子とし、八位以上は願により許可される。なお別に算生三十人をおくものと定めている。初期の大学寮は、儒学の経典の学習を主とするものであった。
 当時のわが国の貴族社会、すなわち公家の性格によって教育内容は変化した。なお大学寮は、平安後期には衰微し、安元三年(一一七七)の京都の大火で焼失し、後は再興されなかった。大宝令によれば、地方の国々には「小学」を置くことにしていたが振わず平安末期に律令制度の崩壊とともに姿を消した。
 古代の公家時代には、大学寮と関連をもつ教育施設として「曹司(ぞうし)」が設けられた。曹司は学問所と寄宿舎を兼ねた施設であり、大学寮の学生はここで公家として必要な教養を積んだのである。