(一) 律令国家と官道の整備

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 下野国は五畿七道のうち東山道に属していた。東山道に属する国国は、都に近い近江(滋賀県)から美濃・飛弾(岐阜県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)を経て下野に入り、さらに陸奥・出羽(東北地方)の鎮守府までの中通りであった。七道は行政区分であったが、これらの国々の国府を結ぶ官道でもあった。
(注)宝亀三年(七七二)武蔵国が東海道に移属し、東山道の駅路は上野国新日駅から下野国足利駅に連なる。

 これらの街道は律令制度の進行に伴なって、次第に整備され、大宝律令の完成した八世紀の初めに確立したものと考えられる。
 当時、幹線道路を媒介として、中央集権的な律令国家が確立されていったのである。
 大化改新の詔(六四六)の駅馬・伝馬に関する記事「初修京師(みさと)、置畿内国司、郡司、関塞(せきそこ)、斥候(うかみ)、防人、駅馬(はゆま)、伝馬(つたわりうま)、及造鈴契(すずしるし)(中略)、凡給駅馬、伝馬、皆依鈴伝符剋数、凡諸国 及関給鈴契、並長官、皆次官報(『日本書紀』)」は、『大宝律令』の示すところでもあり、これを契機として、七道の整備は統一的に急速に進められ、八世紀の初めに確立されたものと考えられる。東山道は馬を手段とする京への輸送であったので、米穀などの重貨物は少なく、布・綿・絹などの軽いものが大部分であったものとみられる。
 官道は中央と地方間の官吏・官使の往来や政令伝達と報告連絡のために用いられた。また蝦夷征討軍などの通行や、高僧などの行脚、調庸などの貢物輸送にも利用されたという。
 (注1)蝦夷征討関係事項(抄)
年代西暦ことがら
和銅二年七〇九陸奥鎮東将軍巨勢麿東国七か国の兵士を率いて通る。
天平宝宇三年七五九坂東八国に陸奥国の要請あれば一国二千の兵を出すことを命ずる。
天平四年七六〇仁部少輔石川朝臣公東山道使となる。
神護三年七六九陸奥に坂東の民を送りこむ
宝亀六年七七五蝦夷の反乱に備え、下野外三国の兵九百九十六人を送る。
〃 七年七七六出羽の賊反し、下野、常陸、下総等の騎兵がこれを討つ。
延暦五年七八六紀朝臣揖長(かじなが)を東山道に派遣し征夷の兵士・兵器を援護させる。
延暦七年七八八東山道の諸国に糒(ほしいい)二万三千斛を陸奥国に運ばせる。
このころ坂東諸国などの歩騎兵五万人を陸奥国多賀城に集結させる。
延暦十年七九一征夷大将軍大伴弟麿、副使坂上田村麿等大軍を送る。
延暦十六七九七征夷大将軍坂上田村麿陸奥に移す。
永承六年一〇五一鎮守府将軍源頼義に安倍頼時追討を命ず(前九年の役)。
康平五年一〇六二前九年の役終る。
永保三年一〇八三鎮守府将軍源義家清原一族の乱平定に向かう(後三年の役)。
寛治元年一〇八七後三年の役終る。

 (注2) 〔延喜式〕 [二十四主計上]
東山道
 ○中略
 下野国 [行程上三十四日下十七日]
調、緋帛五十疋、紺帛六十疋、黄帛五十疋、椽帛二十五疋、絁二百疋、紺布八十端、縹布十五疋、

端、榛布十端、自余輸布、
庸、輸布、
中男作物、麻一百五斤、紙、紅花、麻子、芥子、


 東山道の駅は陸奥までおよそ六十一駅あり、約二十キロメートル(当時の三十里のちの五里)を標準間隔として設けられていた。この距離は、地形・人家・馬の管理の適・不適によって伸縮されていた。(注、廐牧令(きゅうぼくりょう)の諸道置駅条に「凡諸道須駅、毎卅里、置一駅」)
 駅家(うまや)のある集落には、駅長・駅子(えきし)をおいて公用旅行者の馬や宿泊の便をはからせた。東山道は「中路」であったので、駅家には、十疋の駅馬が常備されていた。なおこの外に安蘇・都賀・芳賀・塩谷・那須郡には伝馬が五疋宛置かれていた。
 このような官営の交通制度を駅伝制、または駅馬伝馬の制といい、旅行する役人などは乗馬を駅家毎に乗り継いだのである。