(三) 駅家の位置と道すじ

170 ~ 172
 下野の駅がどこにあり、駅路がどのあたりを通っていたか、おおよそのところを想定してみる。

下野国地内 東山道の駅家

 上野国新田駅家(新田町市野井付近)から足利駅家(足利市緑町付近か十念寺説もある。なお借宿は駅家の入口とする説がある。)を経て、三毳(みかみ)丘陵の北部に位置する三鴨駅家(新里付近か、畳岡廃寺跡あり、下津原に比定する説もある)に達する。
 この駅家から道は下野国府に入り、思川を渡り国分寺・国分尼寺付近を通過し、下野薬師寺に進み、上三川町の下多功(たこう)付近に達する。
 田部駅家(多功の南原遺跡付近とみる説あり。)三鴨駅家との里程などから田部を国府付近(田村)を想定する意見もある。
 衣川駅家(宇都宮市石井町付近か。西木代と下岡本付近に比定する両説もみられる。資料不足などから今のところ定説はない)から鬼怒川を渡る。
 鬼怒川の渡河点をどこに求めるかについて各説がある。
 (注)考説の紹介は略す。
 新田駅家(氏家町桜野か八方口とみる説、大谷付近とみる説、南那須町廐久保(うまやくぼ)とする説などあるが何れも論拠が不十分である。)から喜連川丘陵に入り、小川町三輪の式内社三輪神社のわきで、山崎街道に折れ那須郡衙を経て、浄法寺廃寺跡の付近で箒川を渡り、湯津上村の上侍塚古墳・下侍塚古墳の西方を通過して、湯津上村地内の磐上(いわかみ)駅家に達した。「湯津上」の古い形が「磐上」と考えられている。
(注)『湯津上』は『湯津磐上(ゆついわかみ)=五百筒磐(ゆついわ)村』の略であるという。『駅路通』には「湯津磐村という古語あれば直ちにユヅとも読むべし」とあり、湯津上に比定している。

 磐上駅は『和名類聚集』の石上郷にあったものと考えられるので、石上=磐上=湯津上の転化が、みられたのであろうか、なお石上について、野崎のそれとする説は当らない。
 磐上駅家は「小松原遺跡」あたりとみられている。こゝは笠石神社(那須国造碑を御神体とする)の北西約三百五十メートルに位置している。
(注)小松原遺跡 この遺跡は奈良、平安時代の集落跡である。発掘調査の結果、住居跡五十三戸が確認された。古墳時代のもの四戸と奈良・平安時代のもの四十九戸である。

このうち平安時代の住居跡から、「寒川(さむかわ)」「廐(うまや)」と墨書した内黒(うちぐろ)坏型の土師器が検出された。
「寒川」とは『和名類聚集』の寒川郡のことを意味し、「廐」は駅家(うまや)である。これらの資料は九―十世紀の磐上駅家の位置を決定づけるとともに、この廐と、寒川との関係を示すもので貴重である。なお調査で確認されたゞけでも四十九戸の住居跡がみられたことは、駅戸としての石上郷の規模を推察することができる。


小松原遺跡出土品「寒川」「廐」と墨書してある内黒坏型土器」(湯津上村資料館)

 東山道は磐上駅家から金丸丘陵の東縁を西根・根本と北上し、大田原市、南金丸の西坪・馬場を経由、道を北東に転じわが黒羽町地内に入る。余瀬から蜂巣・桧木沢(上の台)を貫け、寒井に達し、那珂川を越し、稲沢から那須町に入り黒川駅家に至る。
 黒川駅家は伊王野付近に想定されている。(注、駅家の一極点の選定には、調査を要する)古郷の黒川は、伊王野地区の南半・稲沢・沼野井・睦家・伊王野・東岩崎などの接するところにあり、郷はその周囲にも及んでいたものと考えられる。
 黒川郷に東国で最北端の駅が置かれた。こゝから道は陸奥境の分水嶺を越えて白河剗(関)に達し、まもなく陸奥国の駅雄野(おぬ)駅家に至る。
(注)白河の関、『類聚三代格』承和二年(八三五)の条に「太政官符 応准長門国関勘過、白河菊多両剗事右得陸奥国解儞、検旧記、置剗以来于今四百余歳矣……(下略)」とある。これによると白河の関は菊多(勿来)とともに五世紀ごろ開かれたとみられる。

 
 東山道が伊王野谷を通過したが、その道筋は、およそ舟戸・稲沢・芋渕・伊王野・蓑沢・追分のコースを通ったものと考えられる。しかし具体的な経路は開析谷をどのように通過するか(特に渡渉点をどこに設定するかによって)によって各説がわかれるところである。従って駅家の位置も大秋津説があり、中世との関連から芋渕説も唱えられている。
 伊王野付近は、東岩崎堂平、釈迦堂などの古代遺跡の密度が濃い地方の一つである。駅家の位置としてはふさわしい土地である。
 律令制下の官道は、京畿と大宰府をつなぐ山陽道(大路)に対し、東海・東山両道(中路)は、京から蝦夷地へ向う通路として位置づけられていたので、重要視されていた。そのうちの東山道は平安中期まで、古代の交通路として東海道よりも利用の比重が高かった。東山道は険しい山道が多かったのであるが、大河川の河口なども少なく、より安全な通路とみられていたから、交通手段の発達するまで利用されていた。
 いづれにしてもこれらの道は、律令制下の公道であり、駅制によって運営され、駅家が置かれ、駅馬が往来した道であり、平安末期までその機能を発揮していった。
 なお古代に於いても道とともに河川の支配は重要なものであったものと推察される。