三輪・梅曽(小川町)から磐上駅家湯津上村に入って来た所謂東まわりの関街道(在来の東山道)は、西ノ根、根本を過ぎ、西坪(大田原市南金丸)を経て馬場の余瀬宮(注、那須神社=金丸八幡宮)付近で、福原、鹿畑(大田原市)を経由、丘陵を越し、金丸の箱塚(注、八幡宮の潔斎場ともいう。現在、直線上の土塁が残存している。原型は箱型であったものとみられる)付近から来る道と合する。それから一道となり北上し、粟野宿(余瀬)、蜂巣、桧木沢から糠塚原を横切り寒井の五輪平付近に達し、那珂川を渡り稲沢(那須町)を経て黒川駅家に達する。
『創垂可継』「三社礼式」による
法師峠付近は那須余一の伝説地(注、西行法師と那須野の雲雀(ひばり))、津加武山寄瀬八幡宮は古社である。(注、下野国造奈良別命が清浄地を卜(ぼく)し全の瓊(けい)(玉)を埋めた金丸塚がある。源義家奥州下向の刻再草創、余一宮殿造営、那須家崇敬厚し)なお古くはこの付近を寄郷と称したという。
八幡宮付近に根小屋館跡(注、那須資国が正平(一三四六~七〇)の頃金丸を分知され館を築いたという)と上宿古館跡とがある。東山道はこの近傍を縫うように北上している。
相ノ川の開析谷辺りは低湿地で道は曲りくねって古真箟(すぐの)は温泉明神を祭る古社で、余一使用の矢竹産地の伝承地である。
粟野(あわの)宿は東山道(関街道)の古宿である。後世こゝに白旗村と余瀬村とが生まれたという。粟野宿は磐上駅家と黒川駅家のほゞ中間地点にあり、かつ白旗城下にあったところである。市が立ち、問屋も置かれ、黒羽移城後も殷賑をきわめたという。こゝに〝関街道の粟野宿〟の碑があり古道跡がみられる。(注、「粟野」「寄瀬」「余瀬」は、湿地帯で稲作を主とした農作物豊かな土地にふさわしい集落名である。「白旗」は源氏の旗上げに由来するという。白旗丘陵地は縄文中期の遺跡地、古城跡、帰一寺、白旗観音、義経塚等あり、近傍に新善光寺等、その他野仏、道標もあり、中世から近世にかけての遺跡が密度濃くみられる土地である。これら繁栄をみた粟野宿の歴史的遺産である。
蜂巣は古来〝蔵針の里〟(注、蜂が針を蔵し、一朝のとき外敵に当ったことを「武」に擬えた)といわれ、東山道沿線には、『那須記』にでてくる大館(おおだて)(築地居館跡・奥沢居館跡がある。)があり、犬追物の跡などがある。多賀神社もあり、少し離れた所に篠原がある。いわゆる〝那須の狩倉(かりくら)〟の地である。(注、篠原は玉藻の前伝承地、狐塚があり、源頼朝が那須遊猟のとき社殿を造営したという篠原玉藻稲荷社がある。)
東山道は、この辺りで広漠たる那須の篠原の地を通過する。荒野であっただけに伝説の壌土となり、歌が生まれたものと考えられる。
桧木沢は亀川(おおやつか)の流域にある。那須扇状地扇端の湧水地帯にあり、湧水地に戸が立ち湿田が開け、そこを結ぶように東山道がある。上ノ台に温泉神社があり、那珂の河岸に二ツ滝不動堂がある。
寒井の糠塚原に古道の跡がみられる。寒井小の北側、東西に走る道である。道路の南側に丘(糠塚)がある。(注、天喜四年〈一〇五六〉源義家が阿倍貞任征伐のとき戦勝を祈願したという叩頭塚(ぬかづきつか)という伝承あり)
寒井宿は那珂川の渡渉点に発達した古い集落である。こゝを新渡戸駅に擬定した説がある。
角折れ坂の箇所に東山道の跡がみられる。国道南側の細い道である。こゝ五輪平に佐藤継信、忠信兄弟の墓碑(多層塔)・道標など碑塔類が数多く分布している。
対岸に川田居館(注、那須氏の一族川田資成が構築した城)と高館(砦)がある。稲沢にも那須資家が築き稲沢氏が住んだ館があった。このようにこの地は、東山道を扼す重要な位置にあったので中世城館跡が多く立地したのであろう。
関街道の道すじも時代とともに短絡化し、その呼称も変えられていったものとみられる。
黒羽町地内 東山道駅路近傍図