五、新しい街道ができる

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 奥(陸)羽街道(奥州道中ともいう)は江戸幕府により新街道として設定され、慶長九年(一六〇四)ころ正街道になったという。五街道の一つで、江戸千住―陸奥三廐(みうまや)間(千住―宇都宮間は日光街道と重複)をいうが、厳密には宇都宮・白沢・氏家・喜連川・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・芦野・白坂・白河の十宿、約八九・七キロメートルの街道をいう。奥州道中の十ケ宿が越堀を最後に正保三年(一六四六)に設置完了をみたという。
 東山道ができても、旧東山道や鎌倉街道(関街道)は、副道としてその機能を発揮し、重用されていた。そしてその道すじも時代とともにます/\直線的なコースを通るようになったとみられ、また関街道の呼称も変っていったようである。
 川西町道路絵図面(大正九年〈一九二〇〉調製)をみると、湯津上村(狭原)から町内に入り、大豆田―黒羽向町(上町・下町)―桧木沢(滝の上)―寒井に至る街道を仮定県道関街道と称し、大田原市(南金丸)から余瀬を通る道を福原街道と称していたことがわかる。このことからみて黒羽向宿を通過する道を、関街道と称するようになったのも、大正期ばかりでなく白旗から黒羽に移城がみられ、石井沢の地に荒宿が形成されたころあるいはそれ以前に溯ることができないだろうか。近世末期の文書に「黒羽向宿」の名がみられる。時代の進展により、通過地としての黒羽向宿指向が高まり、東山道や鎌倉街道の名目とは別としても実際的に、福原―(法師峠)―大豆田―黒羽向町―桧木沢(滝上)―寒井の道が常用され、笠石方面から北上する道も西根―根本―大豆田を経て、黒羽向町に入ったのではないかと推測される。

川西町道路絵図(大正9年調製)川西町役場