しかし通常は、中世の武士の戦闘的集団のなかに典型的な武士団の姿をみることができよう。従って武士発生の時期を源平両氏の台頭する十世紀ごろとみるのが定説である。
この解釈によると平将門(まさかど)の兵力は典型的な武士団とみられる。
(注)将門は下総・常陸両国を根拠地とした豪族である。上総介となり、この地に下り、平氏発展の基礎を築いた。
これは、中央貴族の系譜をひき、国司の子孫として土着した地方豪族を主たる対象として、武士および武士団の成立とみる考え方が基本にあるからである。
武士発生の社会的基盤は、田堵(たと)(注、荘園内の住人)・名主的な地主層、開発領主的な領主層、豪族領主層である。これは領主層の系譜を考察する際の階層の分類でもある。
在地の勢力者は、広大な土地を開き、付近の村落の名主、百姓を支配し、その土地に私的な支配権を確立したが、この所領も国司の干渉から守るため、寄進型荘園を成立させ、実質的に土地支配を留保し、形式的には、その荘園の荘官(下司)となっていった。
このような過程のなかで、次第に武力を蓄え、武力を擁することによって、武士という階級を形成したという。
在地領主層が武力を蔵する際に、同族結合をはかり、組織の重圧によって、支配下の名主、百姓を主従的関係におき、武士団の結合をはかっていったらしい。
これらの豪族的武士は、さきにふれたように大体において中央貴族の系譜をひき、その権威と律令的国家機構を背景とする権力(注、朝廷から検非違使・追捕使・押領使などに任命されたり、国衙組織のなかに入りこんでいた。)と、蓄積した富力とによって、農民を支配し、広大な私領を領有するようになったのである。(『武士団の形成』安田元久による)
承平(じょうへい)五年(九三五)に、律令制古代政権崩壊の口火を切った承平・天慶(てんぎょう)の乱がはじまった。
将門の乱により関東地方は、藤原秀郷と平貞盛一族の勢力圏となった。貞盛は、常陸・下野・上野など関東の山根地帯を根拠地とし、その武力結集も古代的なものから、中世の武士団結合の姿へと移行していった。こうして地方豪族が、地の豪族を制圧する形で強力な武士団への成長をみたのである。
(注)藤原秀郷は将門誅伐の功により、下野守・武蔵守に任ぜられた。秀郷は国司・押領使として勢力を拡大し、下野における政治・軍事上の実権を掌握していった。秀郷の子孫は小山・長沼・結城・佐野などの諸氏に分かれ在地武士化した。