二、東国の騎馬武士

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 東海・東山両道のうち遠江・信濃以東が一般に東国と称せられていた地域であったが、この地域には牧(まき)が多く設定され、貢馬が生産されていた。馬が基本的な輸送手段であったばかりでなく、生活体系とも深く結びついて、中世になると普遍的な騎兵型武士が典型的に形成される地盤をなしていた。〝弓と馬〟は関東武士の象徴であった。
 下野をふくむ坂東諸国は、古くから蝦夷討伐の後方基地として位置づけられ、兵士や物資の徴発ばかりでなく騎兵型武者は弓射によって機能づけられたが、これは蝦夷との戦闘によって摂取され、平将門の乱以後、社会的存在になったという。
 武家棟梁の一流は桓武平氏と清和源氏である。よく西国の平氏、東国の源氏といわれているが、これは院政期以降のことで、その以前は、平氏が東国に蟠居し、源氏は畿内近国にその活動の場を置いたのである。
 前九年の役で源頼義が活躍したが、その戦闘力は個々に徴発され動員された独立的小武士団も含まれ、古代の軍団の遺制がみられた。すなわち官符を賜わって諸国の兵士を徴発し、兼ねて兵粮を納めたのである。しかし源義朝が保元の乱で動員した兵力には、東国の中世武士団が多数ふくまれていたという。このことから源氏の場合、十二世紀前半期の義頼のころ東国にその権力基盤を形成するようになったものと考えられる。
 平氏政権は離合集散の激しい西国の海賊的武士を主たる権力基盤としたが、鎌倉幕府は、東国社会を基盤としたので中世武士団(在地領主)の独自な編成を可能にし、中世荘園制社会を主導することができたのである。(注、「古代末期の東国と西国」小西靖憲による)