4 恩田御霊の宮(ごりょうのみや)の香炉の銘の説

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御霊の宮香炉の銘は、烏山城主永井伊賀守直敬の撰文であって、元禄六年(一六九三)二月、銅製の香炉に刻して御霊神社に奉納した。その撰文の中に、
「那須余一諱宗隆、姓藤父資隆、其先出田原藤太秀郷。実為天児屋根命之神別。……………(中略)夫宗隆、本雖首藤之庶流、下略」

 とあって、秀郷をもって始祖となし、かつ首藤の支族と断じた。蓋し山内首藤系図に拠ったものであろう。と述べている。
 『紋章学』(沼田頼輔著)に載せてある首藤山内略系図は次のとおりである。

首藤山内氏略系図

 系図のほかに『紋章学』の文章も紹介している。それは、
「一文字を用ゐしものにては、山内、須藤、及鎌田の三氏名を知られたり。山内氏は藤原氏に出づ。左大臣師尹六世の孫を資清(父は通家とも言ひ又道長の孫長家の子なりともいふ)といふ。主馬首たり、由って首藤氏を称す。資清の弟を資房といふ。下野那須に在し、須藤太郎といふ。その曽孫は与一宗隆にして、屋島の戦にその名を知られたり。那須系図に拠れば、その家紋、初め丸内に一文字を用ゐ、幕紋には黒一文字を用ゐたり。千本、福原の二氏、那須氏より出で、いづれも一文字を用ゐたり。資清の子を資通といふ。資通に三子あり、長を通清といひ、鎌田氏を称す。家紋亦一文字を用ゐたり。次を首藤義通といふ。その子俊通相模鎌倉郡山内に居りて山内と称す。一門繁衍して諸国に分居す。」
と述べて、那須氏は首藤資清の弟資房から出たとして、全く内ノ内首藤氏と同祖とした、というのである。