「………家系としての那須家は一系だと思うのである。すなわち、武士としての那須家は、国造系と無縁に出現したものではなく、国造系の那須家のあった所へ、山内首藤系の血が入り、やがて新興武士としての那須家が出現したとみるのである。」
という説である。この問題について、前に『那須郡誌』においても引用している。大田亮(『姓氏家系大辞典』)や、森本樵作(『弓矢の偉人那須余一宗隆』)の説を挙げて、「従来の那須系図に疑問をもち、一本系図をあげたり、想像をめぐらしたりしているのは、当然のことであり、また意味のあることである。」と述べ更に論を進め、
「………筆者はこう思うのである。奈良・平安の時代に至っても、国造韋提(いて)系の子孫は那須地方に隠然たる勢力をもっていたと考える。政治の変遷により、その表面には出ていなかったが、地方豪族として存続していたものと考えるのである。文化史や考古学の成果からみると、かの小川町浄法寺にある奈良時代の広大な寺院や地方官衙(郡衙)跡、そして、その上に建っていた荘厳な瓦葺の伽藍を建立し、そして経営した主人公は誰であろうか?と思うとき、私は国造韋提(いて)系の子孫であろうとためらいなく答えたい。………(中略)これらにより、私は国造韋提(いて)系の那須家が武士の勃興期まで続き、たまたま重縁の親属だったと思われる相模の山内首藤家から資房ないし貞信が入り、地方武士として世に出はじめたという過程を確信したいのである」と推論している。
ところが、『烏山町史』では、この「国造系那須氏一系説」に対して、大きな疑問を投げかけており、むしろ否定的でさえある。
まず疑問の一点は、那須国造碑の建立が持統天皇の朱鳥三年(六八九)であり、藤権守貞信の八溝山の凶賊退治が、若し長治二年(一一〇五)だとすると、この間四百年をはたして一地方豪族が勢力を維持できたろうか、ということである。さらに、
続日本後紀 九仁明天皇
承和七年二月癸亥、陸奥国柴田郡権大領丈部豊主、伊具郡擬陸奥真成等戸二烟、賜二姓阿倍陸奥臣一、同国人丈部継成等卅六人賜二下毛野陸奥公一、
承和七年二月癸亥、陸奥国柴田郡権大領丈部豊主、伊具郡擬陸奥真成等戸二烟、賜二姓阿倍陸奥臣一、同国人丈部継成等卅六人賜二下毛野陸奥公一、
続日本後紀 十三仁明天皇
承和十年十二月乙卯朔、下野国那須郡大領外従六位下勲七等丈部益野、勧二課農田一千五百七十一町、増二益戸口一二千卅一人、国司裒挙、借二外従五位下一、
承和十年十二月乙卯朔、下野国那須郡大領外従六位下勲七等丈部益野、勧二課農田一千五百七十一町、増二益戸口一二千卅一人、国司裒挙、借二外従五位下一、
右の二史料を挙げて、
「これが事実であるとすると、那須直韋提(あたいいて)が帰化人らに対して善政を施してから約百五十年後には、那須郡司が丈部(はせつかべ)益野なる人物に代わっており、しかも、相当の力によって郡内の開発に努め、大きな前進を実現せしめているのである。……(中略)丈部なる人物はただ一人だけでなく、多数、陸奥国から移住して郡内の国領を増加させている。これは、九世紀半ばの那須郡には、これを統治し、年貢等の公収を確保し、あるいは増大させるような力を持つ豪族がいなかったことを示しているものである。那須直韋提(あたいいて)の子意志麻呂の子孫は一体どうなってしまったのだろうか。その後那須郡は有能な郡司など在庁官人に恵まれず、他郡からの豪族の公領侵略横領、あるいは郡内の土豪の成長などによって、乱れていたものと考えられるのである。したがって、国造系那須氏の存続の可能は薄れてくるのではないだろうか。」
と反論している。