(三) 荘官成長説(『烏山町史』)

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 那須氏の起こりについて、『烏山町史』では次のように述べている。「那須氏の出自と台頭に関する諸説の中で最も可能性の大きいものとして荘官成長説がある。これは、荘園の現地支配者としての荘官的階層のものが政治的・経済的な勢力を得て、在地領主化したと思われる説である。
 この考え方の根拠と思われるのは次の二点である。
○古代末期の那須郡内には、中央権門の荘園が分布していたこと。

○那須余一宗隆の十人の兄が、那須郡の周辺部の新開地と思われるところに分知されたこと。」

 この二点から推論しているが、要約すれば、まず前者については、史料を挙げて、「那須郡内には平安末期から鎌倉初期に、国衙領の他に中央の権勢門家の荘園が存在していた」そうして、「荘園の現地支配者がかなりの勢力を貯えていたものと考えたほうが妥当ではないだろうか」といっている。
 この考えに基いて、「那須氏の祖は貞信なる人物ではなく、むしろ荘園の現地支配者である在地領主の中の有力者であったのではないかと思われる。在地領主の有力者とは一体誰だったのだろうか。結論的に言えばそれは山内首藤氏の一派ではなかったかと思われる。……(中略)那須氏は山内首藤氏の一族であり、貞信なる人物が郡司として下向してきた時、すでに那須郡内にかなりの勢力を持つ名主的な荘官として成長していて、郡司である貞信が山内首藤を懐柔して(あるいは融合して)、公領の支配にあたったものと考えられる。その後、有力な在地領主である山内首藤氏の勢力をおさえるため、貞信は、山内首藤資通を養子とし、ともに、那須地方の経営にあたったものと思われる。」と論述している。
 第二点については、「郡の中央部(那須郡十二郷すなわち那須、大笥、熊田、方田、山田、大野、茂武、三和、全倉、大井、石上、黒川の郷が近接して分布している)には、那須十氏は分知されてなく新開地と思われる周辺部には比較的多い」として、このことから「那須氏は郡内の荘園内に勢力を持つ豪族、つまり下司職としての荘官であったことが推察できるのである。」と決論している。
 
 那須氏の出自とその台頭に関する諸説の中で、三つの有力な説を紹介したのであるが、共通しているのは、那須氏と相模山内首藤氏とは密接な関係(養子縁組、結婚等)において成長していったという点であろう。
 山内首藤氏が那須郡に進出して、従来那須地方にあったどのような勢力(那須氏の祖と思われるような)と結びついて、その力を伸ばしていったかが論の分かれとなっているように思われる。
 時代を溯ってみるに、那須という文字が歴史の表面に現われたのは、「那須国造」の設置(景行天皇の御代)である。国造碑には、那須国造の那須直韋提(あたいいて)が、那須郡(大化の政令により国から郡に改められた)の大領(郡司)に任ぜられ(持統天皇の朱鳥三年=六八九)たことが明記されている。
 郡司の任用は「選叙令」に示されている。「凡そ性識清廉(せいしきせいれん)にして時務に堪うる者を取りて大領・少領とせよ」とあり、また「才用同じくば、まず国造(くにのみやつこ)を取れ」とあり、郡司は終身官でもあった。当時は国司に任命されるのは中央の官人であったが、郡司や里長は現地の有力者の中から任命された。だから那須直韋提の子意志麻呂も那須郡大領に任ぜられた。そうして、その子孫も律令体制の時代にあっては、何代かは那須郡の郡司に任命され、郡衙に在って郡政を司ったであろうことは、推察できる。
 ところが、律令体制が解体されてきた九世紀以降になると、事情は変ってきた。
 「国造家は一郡にせいぜい一家しかないので、国造家のものだけが郡司を独占すると、同姓同族による一郡支配の態勢が生ずるので、平安時代では、なるべくそうした事態はさけるようにと規定されている」(『日本の歴史』6)
 とあるが、この背後には受領(国司)と郡司との対立抗争があった。『続日本紀』 十三仁明天皇の「承和十年十二月乙卯朔、下野国那須郡大領外従六位下勲七等丈部益野云々」という記事は、これらの事情を裏書きしているものであろう。この時すでに国造系那須氏は、国衙領である那須郡の郡司の職を解任され、国家から委託された政治的権力が失われているのであり、なお「那須地方に隠然たる勢力」を持ち続けたということには、『烏山町史』が指摘しているように、やはり大きな疑問を持たざるを得ない。
 しかし、いずれにしても、那須氏に関しては、首藤権守貞信の名が見える(長治二年=一一〇五)まで、歴史の表面には現われてこないのである。また承和十年(八四三)以降二百余年間は、那須郡の情況は全く不明といってよい。
 那須氏は一地方豪族として次第にその勢力を拡大し、やがて武士として成長していくのであるが、その過程はどうであったろうか。一般に平安時代後期に台頭した地方武士は、公領・荘園の在地領主や、私営田領主たちが自衛のため、あるいは領内の農民を力で支配するために武力を持つようになり、やがてそれが組織化され、集団化されて強力なものに成長していった。
 院政政権時代になると、営田と勧農を基礎として、公領・荘園の在地領主制が大きな成長をみたという。この在地領主制の担い手は、その発生の系統を見ると、
①国衙の在庁官人、郡司層などの、公領支配の末端機構としての官人系

②荘園の開発者や管理者などの荘官系

 この二つになるが、これらは相互に入りみだれて明確には区別されないといわれている。(『岩波講座 日本歴史』『中央公論社 日本の歴史』)
 地方の豪族とか、土豪とよばれた者たちの多くは、このような土着の在地領主なのである。当時僻遠の地はともあれ、那須地方もこうした歴史の流れの中にあったと見てよい。那須地方には史料の示すように、公領・荘園が散在していたから、在地領主も複数であったと思われる。その中でも那須氏の祖と思われる在地領主は、私領も拡大し、ある程度の兵力も有していたから、那須地方に進出を企図していた相模山内首藤氏は、これと血縁関係を結ぶことによって、更にその勢力を拡大していったと見るべきであろう。
 権守貞信の八溝山の凶賊退治は、たとえそれが伝説化されたものであったにしろ、大変象徴的なことがらである。当時那須地方では国司と郡司・荘官の対立抗争があり、豪族・土豪などといわれる者たちの侵略押領が横行して、ひどく治安が乱れており、貞信なる人物が、これの鎮圧平定を命ぜられて那須郡に下向した際、すでに山内首藤の血がはいって、在地領主として勢力あった者(那須氏の祖)の力を借りて成功をおさめたというべきであろう。
 こう見てくると、那須氏は在地領主(官人系か荘官系か区別し難いが)として那須地方に土着し、次第に勢力(経済力、武力)を拡充していく過程において、山内首藤氏の血が色濃く混入した。こうなると山内首藤氏の庶流の観を呈し、『那須郡誌』の著者が、「那須氏をもって相模山内首藤氏から出たもの」としたのも、故なきわけではない。
 『那須系図説』を見ると、須藤資満(この時代はまだ那須氏を称しないで、須藤姓である)は、「実ハ相州山ノ内ノ首藤刑部義道ノ嫡子也。資通無子故ニ、同姓ノ故ヲ以テ為養子、是ヨリ丸一文字ノ紋ヲ用フ。山ノ内家ハ次男刑部丞俊通ヲ以テ継シム。平治元年源義朝ニ属シテ、於京三条河原討死」とある。
 このように山内首藤氏と縁組みを重ねることによって、那須氏(須藤氏を称す)は他の在地領主たちを押え、飛躍的に伸びていったものと思われる。いうなれば那須氏は、こうした二重構造(重層的構造)の上に成立し、そして成長していったのである。