(一) 那須氏と源氏とのつながり

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 相模国山内首藤氏との密接な結び付きのもとに、在地領主として成長していった那須氏は、所領を拡大して経済力を増し、また武力を強め、社会情勢の進展とともに、小規模ながらも地方の武士に転身していった。
 那須氏の祖先が源氏との最初の結びつきは、おそらくは源頼義であったろう。頼義は前九年の役(一〇五一)に陸奥に下向するに東山道を辿った。東山道は那須郡を通過する。頼義は那須郡内の宿駅において軍兵を募り、兵糧をととのえた。粟野宿(黒羽町余瀬)に於て軍兵を募った際、西の丘(白旗山)に登り、白旗を飜して大いに気勢を挙げたという話もこの時のことである。地方の武士たちは頼義の威風に服した。那須氏(須藤氏)とてその例外ではなかった。頼義が陸奥鎮守府将軍に任命されて挙兵した時には、「坂東の猛士」は雲のごとく集ったといわれている。
 その後陸奥守源義家が、後三年の役(一〇八七)に出陣した際にも、頼義の前九年の役同様「坂東の精兵」は義家の率いる軍団に編入された。そうして次第に私的主従関係に結ばれていったという。『那須系図説』には、須藤太郎資通について「八幡太郎義家ニ仕フ」とあり、主従関係になっていたようである。
 義家は陸奥守として在任中に、陸奥国に産出する砂金を一手に収め、義家に従う将兵の行賞にはその私財を投じたといわれている。そのために将兵は感激し、義家に対する信頼の度を深めていった。そうして義家が前九年の役、後三年の役に武名を挙げて、やがて「天下第一武勇之士」と呼ばれるころ、東国地方の私田領主や豪族あるいは土豪といわれる連中は、その地位を保ち、所領の安堵のため争って所領を義家に寄進したという。後にはこの寄進が余りに夥しいためか、諸国の百姓が自分の田畑を義家に寄進することを禁止したと『百練抄』は記している。
 東山道粟野駅(余瀬)の西の丘(後に白旗山と名づけられた)に、加茂神社が鎮守として祀られている。源頼義・義家父子が陸奥征討の途次、粟野駅に於て軍兵を募った際、当社に戦勝を祈願した。やがて奥州は平らぎ、その帰途再び粟野駅に宿り、加茂神社に詣で、神領二町歩を寄進し、神恩に報いたと社伝にある。現に八幡田と称するその寄進田は、おそらくこの地の豪族が義家に寄進した、私営田の一部であったろうと思われる。
 源氏の棟梁正四位下源義家は嘉承元年(一一〇六)七月十六日、六十八歳で没した。義家の死後源氏の内訌があって、その勢力は衰えた。しかしその後、義朝の時代になって、保元の乱(一一五六)の戦勝で、やゝ勢力を恢復した。平治の乱(一一五九)において義朝に従った武士たちは、東海道・東山道の各国に亘っているが、その中で相模国では、山内須(首)藤俊通・同俊綱の名が見えている。(『保元物語』)
 前記『那須系図説』の資満の記事を再掲すれば次のようである。
「資満実ハ相州山ノ内ノ首藤刑部義道ノ嫡子也。資通無子故ニ、同姓ノ故ヲ以テ為養子、是ヨリ丸一文字ノ紋ヲ用フ。山ノ内家ハ次男刑部丞俊通ヲ以テ継シム。資満ハ平治元年源義朝ニ属シテ、於京三条河原討死。舎弟俊通モ同年六条河原ニテ討死。」

 これらによれば、山内首藤氏を出て那須氏(その頃は須藤氏を称す)を継いだ資満は、弟の山内首藤俊通らと源義朝の軍に従い、保元の乱にも出陣し、その後の平治の乱には、遂に弟、甥および太郎資清ともども壮烈な戦死をとげたのである。
 その討死の模様は『平治物語』に次のように記されている。
 ○義朝六波羅に寄せらるる事
頼政(よりまさ)が郎等(らうどう)、下総国住人(しもつけのくにのぢゆうにん)、下河辺藤三郎行吉(しもかはべのとうざぶろうゆきよし)が放矢(はなつや)に、悪源太(あくげんだ)の郎等(らうどう)、相模国住人(さがみのくにのぢゆうにん)、山内須藤滝口俊綱(やまのうちすどうたきぐちとしつな)が頸(くび)のほねにたつ。馬(うま)よりおちんとしければ、父刑部丞是(ちちぎやうぶのぜうこれ)をみて、「矢一(やひとつ)にあたりて馬(むま)よりおつる者(もの)やある。不覚(ふかく)なり。」といさめられければ、弓杖(ゆんづえ)つゐてのりなをる。悪源太宣(あくげんだのたまひ)けるは、「滝口矢(たきぐちや)にあたりつるぞ。敵(かたき)に頸(くび)ばしとらすな。御方(みかた)へとれ。」との給へば、斉藤別当太刀(さいとうべつたうたち)を抜(ぬい)て寄(より)あひたり。滝口(たきぐち)、「御辺(ごへん)は御方(みかた)とみるはひがことか。」実盛(さねもり)いひけるは、「敵(てき)に頸(くび)ばしとらすな、御方(みかた)へとれと、悪源太(あくげんだ)のおほせなり。」といへば、「さては心(こころ)やすし。」とて頸(くび)をのべてうたせけり。弓取(ゆみとり)のならひほどあはれにやさしきことはなし。生(いき)ては相模国山内(さがみのくにやまのうち)、はては都(みやこ)の土となる。父刑部丞是(ちちぎやうぶのぜうこれ)をみて、「命捨(いのちすて)て軍(いくさ)をするは、滝口(たきぐち)を世(よ)にあらせむ為(ため)也。今(いま)は生(いき)ても何(なに)かせん。うち死(じに)せん。」とて戦(たたかひ)ければ、悪源太(あくげんだ)、「あッたら武者刑部(むしやぎやうぶ)うたすな、者(もの)ども。刑部(ぎやうぶ)うたすな。」とのたまへば、兵中(つはものなか)にへだゝりてかけさせねば、涙(なみだ)とともに引返(ひつかへ)す。
これは、六条河原の戦いにおける、山内首藤俊綱の討死、および父俊通の奮戦の模様である。
○義朝敗北の事
 平家(へいけ)をつかけてせめければ、三条河原(さんでうかはら)にて鎌田(かまだ)といひけるは、「頭殿(かうのとの)はおぼしめす(ば)むねありておちさせ給(たまふ)ぞ。〔ふせき(ぎ)矢射(やい)はや、人々。」といひけれは(ば)、ひらか(平賀)四郎義(よし)のふ(宜)ひかへし、さん/\(さん)にたたかひければ(ば)、よしとも(義朝)見たまひ、〕「あはれ源氏(げんじ)はむちさ(鞭差)しまでもおろかなる物(もの)はなきかな。あッたら武者平賀(むしやひらか)うたすな、者(もの)とも、平賀(ひらか)うたすな。」と宣(のたま)へば、佐々木源三(ささきのげんざう)・井沢(ゐざわ)の四郎をはじめとして、我(われ)も/\と中(なか)にへだゝり戦(たたかひ)けり。佐々木源三秀義(ささきのげんざうひでよし)は、敵(てき)二騎(き)うつて手負(てをい)ければ、あふみ(近江)をさしておちにけり。須藤刑部俊通(すどうぎやうぶとしみち)は、六条河原(ろくぜうかはら)にて子息(しそく)をうたせ、うち死(じに)せんとおもひけれども、いのちはかぎりあるものなればにや、そこにて敵(てき)三騎(き)うつて討死(うちじに)をす。井沢四郎宣景(いざわのしろうのぶかげ)は、廿四さしたる矢(や)を持(もつ)て、けさの矢合(やあはせ)よりして、 敵(てき)十八騎(き)いおとし、えびら(箙)に〔矢(や)六残(のこ)りたるけるに、三条(さんてう)かはら(河原)にて敵(てき)四き射(ゐ)おとし、えひ(び)らに〕矢(や)二つのこし、ておひ(手負)ければ、遠江(とをとうみ)に知(しり)たる人のありしかば、それにおちつき、疵(きず)をれうぢ(療治)して、弓(ゆみ)うちきりて杖(つえ)につき、山伝(やまづたひ)に甲斐国(かひのくに)の井澤(いざは)におちけり。

 とあり、こちらは三条河原の戦いであった。このように首藤俊通・同俊綱の討死の模様について『平治物語』は記しているが、俊通の兄で那須氏(須藤氏)を継いだ資満については、なにも記していないところをみると、田舎武士の那須氏は、中央に於てはいまだ武士とは認められず、山内首藤氏の郎党ぐらいにしか思われていなかったのであろうか。もっともその当時は、那須氏と称せず、資満・資清、資房、宗資いずれも須藤氏(系図には「同性ノ故ヲ以テ」、とある)を称していたし、家紋も山内首藤氏と同じく、丸一文字を使用していた。
 平治の乱に参戦した軍兵は、源義朝方二百余騎、平清盛方三百余騎と、『兵範記』(平信範の日記)は伝えている。動員された東国の軍兵も、それほど多いわけではなかったが、下野国では八田四郎・足利太郎の名が見えている。(『保元物語』) 山内首藤氏および那須郡の須藤氏(那須氏)の率いた軍兵も、家の子郎党の僅かな手兵であったろうと思われる。
 六条河原の戦闘に敗れた源義朝は、源氏ゆかりの地東国に逃れる途中、尾張国に於て長田忠致の手によって殺害された。一族はあるいは捕えられ、あるいは斬られて壊滅した。
 平治の乱に大勝利を得た平家方には、これに敵対する勢力はなくなった。やがて清盛は政権をも獲得して、天下に号令する身となり、平家一門は栄耀栄華をきわめることになる。
 源義朝の軍に従った那須氏は、資清(父)資満(太郎)の戦死により、次郎資房と三郎宗資は、甲斐国稲住(稲積)庄(いなずみしょう)に逃避した。
「平治ノ乱後、神田城ニ住スルコト不能、甲斐国稲住ノ庄ニ弟ノ宗資ト共ニ蟄居ス」

 と、『那須系図説』は記している。稲積庄は山内首藤氏ゆかりの土地であったからだという。稲積庄については『大日本地名辞書』(吉田東伍)に次のように記されてある。
 東鑑に「承久三年七月廿九日、小笠原次郎長清、於甲斐国稲積庄小瀬村、刑入道二位兵衛有雅」と云ひ、源有雅は当時京都官軍の与謀者たりしが故に、誅殺にあへり云々。(名勝志)稲積庄は、荒川の東西諸村をすべたり。中郡筋の大庄なるが区域明了せず。云々。

 このようにして、那須氏は源頼義・義家以来結ばれた源氏との関係は、平治の乱における源氏方の大敗、そして棟梁源義朝の死によって、一旦は跡絶えることになるのである。