(二) 平家の天下のもとに

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 源氏は平治の乱の敗北によりほとんど壊滅してしまった。平家にとってもはや対抗できる武士はいなくなった。乱後清盛は政界に進出し、公卿となるやその昇進は驚くほどであった。やがて太政大臣となりその一門一族は栄達し、「平氏に非ざるは皆人非人」とまでいわれるようになったと、『平家物語』は伝えている。
 こうした時勢では、栄達を欲する者、身の安堵を希う者は当然平家に追従することになる。積極的にそうまでしなくとも、かつて源氏に従った武士たちの中には、身の安泰を守る為には地方に逃れて身をかくすか、あるいはひたすら恭慎の意を表するほかなかったであろう。那須氏とてその例に漏れなかった。乱後いちはやく須藤次郎資房は、弟宗資を伴って甲斐国稲積庄に逃れたのは前記のとおりである。その地にあって兄弟はひたすら謹慎の日を送り、鎮守稲積明神に本国帰還の祈願を籠めたのであった。後に平清盛に赦されて、永万元年(一一六五)に下野の故地に帰ることができたが、どういうわけか不明だが、兄資房は家を継がず、弟の宗資が後を継いだ。宗資は小川の神田城を捨てて、新に下境村に居城を築き稲積城と称した。そうしてこの地に、甲斐の稲積明神を勧請して守護神とした(『那須系図説』)
 ところが、宗資には子が無かった。その死後那須氏を継いだのが、山内首藤俊通の四男(俊明)で、改名して那須太郎資隆と称した。
 資隆は後に上の庄(現黒羽町大字大輪)に館を築いて、稲積城からここに移り住んだ。いわゆる高館城である。資隆は小山大丞政光の妹を娶って十一男を挙げた。源平二氏の争乱に際しては平氏方に属し、太郎光隆以下次郎泰隆・三郎〓隆・四郎久隆・五郎之隆・六郎実隆・七郎満隆・八郎義隆・九郎朝隆の九名の男子は平氏の軍に従い、各地に転戦した。十郎為隆・余一郎宗隆の二名は年少であるため、父の高館城にあった。資隆後に宇都宮朝綱の女との間に資頼(後に頼資と改めた)をもうけた。(『那須系図説』)