(三) 再び源氏の白旗の下に

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 治承四年(一一八〇)源頼朝が平氏に抗して、伊豆に兵を挙げたので、弟義経は兄頼朝の陣に馳せ参ずべく、奥州平泉の藤原秀衡の館を出て、僅かの郎党を引き具し東山道をのぼった。同年十月その途次、関街道は下野国那須庄粟野宿(黒羽町大字余瀬)に至った際、那須氏の盛名を聞き、義経の軍に従うことを申入れたのである。
 資隆は先に九子を平氏の軍に従わせたのであったが、義経の召しに応じて、十郎為隆および余一郎宗隆(注)の二子を差し出した。義経は祖先源頼義・義家の故事にならい、粟野宿の西の丘すなわち白旗山上に源氏の白旗を飜し、為隆・宗隆の二名と主従の契を結んだ。これより那須氏は再び源氏の軍団に属することになるのである。
 (注)余一の名乗りについては「人物編、那須余一宗隆」参照のこと。