余一宗隆については、『源平盛衰記』や『平家物語』が、屋島の戦において扇の的を射落し、天晴れ武人の名を挙げたことを、見事に文学的に表現をしている。そのためか宗隆にまつわる伝説などは後世いくつか生れているが、その生没や成人の過程に関しては確実な史料が余りにも乏しい。
僅かな史料や傍証をたよりに、幾つかの説はあるが、依然として謎に包まれている部分が多いようである。
『弓矢の偉人那須余一宗隆』(森本樵作)の説は次のようである。
宗隆が扇の的を射落したのは、文治元年(一一八五)二月十九日、『源平盛衰記』には「生年十七歳とあるから、その死去は文治五年八月二十日なので、享年二十一歳となる。逆算すれば生年は嘉応元年(一一六九)となり、源義経の幕下に属したのは寿永二年(一一八四)十二月で、十五歳だとしている。
『那須郡誌』(蓮実長)の説は、
宗隆の死去享年二十四歳(文治五年で前者と同じ)、逆算すれば扇の的を射落した文治元年(元暦二年)は二十歳である。治承四年(この年の十月義経は黄瀬川で兄頼朝に対面)に義経の臣下となって出陣、十五歳であり、出生は永万元年(一一六五)、那須高館城としている。
その他にも異説はあるようだが、謎の部分はさておいて、十郎為隆・余一宗隆兄弟は、義経の配下となって、各地に転戦したのである。そうして前記の如く、宗隆は文治元年(一一四一)二月十九日、屋島の戦において、平氏が船上に掲げた扇を、見事一矢をもって射落して武名を天下に響かせたのである。
恩賞として頼朝より地頭職に任ぜられ、武蔵国本田ノ庄、信濃国角豆庄(ささげしょう)、若狭国東庄宮河原、丹波国五賀庄、備中国荏原庄(えはらしょう)、合わせて五箇の荘園を給せられ、その領地一万八千町歩といわれる。且つ那須総領を命ぜられたのである。
頼朝が諸国に守護・地頭を設置したのは、文治元年十一月のことである。頼朝の軍に従った下野の武士たち、小山氏・宇都宮氏・佐野氏その他の諸氏も、恩賞として地頭職を与えられ、いわゆる「鎌倉殿の御家人」に列せられた。宗隆も同様、「鎌倉殿の御家人」となった。