父祖那須資房・宗資兄弟が、平清盛に赦されて甲斐国から下野国に帰ることができた関係から、その恩顧を感じていたことであろう。また時代は平氏の天下、従って資隆は平氏に属せざるを得なかったわけである。その十二子のうち九名の男子を平氏の軍に所属させたことは前記したとおりである。
ここに一つの物語がある。(『わがふるさと』より)
兄達の脱走
宗隆は屋島の戦に於て、平氏の必ず敗れることを知り、兄為隆と相談して、密使を平氏の陣中に遣わし、九人の兄達に脱走を勧告した。兄達は之に従い、郷国高館城さして逃げ去った。それから為隆は義経が射よとの命令に背いて、追放されたのでこれ亦脱走して、信濃の諏訪に隠れていた。
宗隆は頼朝に仕えて鎌倉に仕ったが、九人の兄弟は高館城に帰って隠れていた。此の事が鎌倉に聞えたので、文治二年(一一八六)二月、頼朝は梶原景時を、兵三千人に将として、高館城を攻めさせた。資隆九人の子息と協力して防ぎ戦ったが、遂に焼き落されて城を逃れ出て、一時姿をくらました。景時は資隆父子の所在を尋ねたが、とう/\解らないので鎌倉に引き返した。そこで資隆は福原の城には入って、九人の子息に諭して、信濃の諏訪に逃げ隠れさせた。所が先に義経に叱られて脱走した十郎為隆が、諏訪に隠れていたのに、思わずもめぐり会ってびっくりした。そうして十人の兄弟は、赦免帰国の願を諏訪神社にかけて、毎日参詣し、かつ鎌倉にある宗隆によって、頼朝に赦免を乞うことに決し、五郎之隆が代表となって鎌倉に上った。幸に赦免帰国を許されたので、十人の兄弟は、小躍りして打ち揃うて国に帰った。