文治三年(一一八七)、宗隆は鎌倉殿の赦免により帰国した十人の兄たちに、それぞれ次のように分知した。
太郎光隆(みつたか) 森田城(南那須町森田)を築いて住む。森田太郎光隆と称した。
次郎泰隆(やすたか) 佐久山城(大田原市佐久山)を築いて住む。佐久山次郎泰隆と称した。
三郎〓隆(もとたか) 芋渕(那須町伊王野)に城を築いて住み、芋渕三郎〓隆と称した。
四郎久隆(ひさたか) 福原(大田原市福原)を分知されて、福原四郎久隆と称し、片府田(大田原市)に住んだ。子が無かったので、弟五郎之隆の子息資広が後を継いだ。
五郎之隆(ゆきたか) 福原を分知され、福原に住み、福原五郎之隆と称した。後に兄四郎久隆の後を継いだが、本家の宗隆が早世したのでその後を継いだ。
六郎実隆(さねたか) 滝田(烏山町滝田)に城を築いて住み、滝田六郎実隆と称した。
七郎満隆(みつたか) 沢城(矢板市沢)を築いて住み、沢村七郎満隆と称した。
八郎義隆(よしたか) 山田城(黒羽町片田字館)を築いて庄み、堅田八郎義隆(かただはちろうよしたか)と称したが、後に小川町片平に城を築いて移り住み、片平八郎義隆と称した。
九郎朝隆(ともたか) 稗田(ひえた)(矢板市豊田)に城を築いて住み、稗田九郎朝隆と称した。
十郎為隆(ためたか) 千本城(茂木町町田)を築いて住み、戸福寺十郎為隆と称したが、後に千本氏。
以上十氏は那須氏の藩屏として、宗家に仕えたが、それぞれの子孫は、戦乱の世にあるいは断絶したり、あるいは同族相争う悲劇の中に壊滅したり、併合せられたりして、今日その正系を伝えるものは、佐久山の旗本福原氏、芦野の旗本芦野氏のみという。
宗家の余一宗隆は、早世して嗣子がなかったので、福原五郎之隆が宗家を継ぎ、福原に住して名を資之(すけゆき)と改めた。ところが資之にもまた男子なく、資隆の十二男御房子(母は宇都宮朝綱の女)が後を継いだ。初め資頼と称したが、後に頼資と改めた。(『那須郡誌』)