(二) 頼資の分知とその後

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 那須氏の宗家を継いだ頼資には六男一女があった。男子をそれぞれ次のように分知した。
太郎光資(みつすけ) 宗家を継ぐ。

資郎資長(すけなが) 伊王野に分知せられ、伊王野氏の祖となる。

三郎朝隆(ともたか) 備中国荏原荘(宗隆が鎌倉殿より給せられた土地)に分知せられ、備中那須氏の祖となる。

四郎広資(ひろすけ) 分知の個所は不明。味岡四郎と称した。

五郎資家(すけいえ) 稲沢(那須町稲沢)に分知せられ、稲沢氏の祖となる。

六郎資成(すけなり) 河田(黒羽町川田)に分知せられ、河田六郎と称した。


 このように那須氏は、那須郡を中心にして近隣に枝葉を伸ばし、家門益々振ったのである。(『那須系図説』)
 さて、那須氏の分知について、特に余一宗隆の兄たちの分知を、『烏山町史』では次のように述べている。
 「十人の兄弟の分知場所を検討してみると、いずれも河川に沿った狭い低湿地であり、しかも、那須郡の中央部から離れた地域であることがわかる。……那須氏が分知した十か所はすべて国衙領外であるとは言い切れないが、また国領を含んでいたかもしれないが、この十二郷(注)の現在地名などと、那須十氏の分知箇所とを比較してみると、やはり、郡中央部は、前述の郷が近接して分布しているのに対し、那須氏はここには分知されていないことがわかる云々」
 このことを地図上に描いて示すと、確にそのとおりだと思われる。しかしその解釈については種々の考え方はあるだろう。
 (注)和名類聚鈔(わみようるいじゆうしよう) 七 国郡第十二(源順著 承平年間九三四項)
  下野国第九十三
  那須郡(十二郷)
   那須(黒羽町の川西地区及び隣接大田原市の旧金田村附近の地)
   大笥(おおけ)(烏山町大桶を中心とする附近の地)
   熊田(南那須町熊田を中心とする附近の地)
   方田(かたた)(黒羽町片田を中心とする附近の地)
   山田(馬頭町大山田を中心とする地)
   大野(黒羽町の両郷地区及び那須町の伊王野地区を含む地)
    (異説、鍋掛西部の地)
   茂武(たけぶ)(馬頭町建武を中心とする馬頭・武茂附近の地)
   三和(小川町三輪を中心とする附近の地)
   全倉(またくら)(黒羽町両郷地区《「創垂可継」の大宮伝による》)
    (異説 谷倉(たにくら)の転、田野倉で、南那須町田野倉を中心とする附近の地)
   大井(烏山町の神長・向田・野上附近の地)
   石上(いわかみ)(湯津上村湯津上を中心とする地)
   黒川(那須町芦野・伊王野附近の地)

 那須十氏の分知前後、那須氏宗家の居住地はどこであったろうか。那須氏の諸系図や諸文献の記載事項を綜合してみると、次のようになるのではなかろうか。
○小川町三輪神田城(平治元年、資清の代まで)――→○烏山町下境稲積城(資房、宗資の二代)――→○黒羽町大輪高館城(資隆、宗隆の二代)――→○大田原市福原(文治五年より五郎之隆、その後嗣)

 山内須藤氏から出て、那須氏を継いだ資隆は、なぜ那珂川に臨む大輪の地に高館城を築いて移り住んだのであろうか。
 かつて武家の棟梁源義朝の麾下(きか)にあった東国の武士たちは、平家の天下になると、「国には目代に随ひ、荘には預所に仕へて、公事雑役にかりたてられ、夜も昼も安き事なし」(『源平盛衰記』)という世の中では、清盛に赦されて帰国できた資房、宗資兄弟は、『源平盛衰記』が記したほどの暮らしぶりでなくとも、稲積城に息をひそめての生活であったろうと、想像に難くない。
 資隆は山内須藤氏を名乗っていた頃、関東武士の中でも有数の実力者である、小山大丞政光の妹を妻としたのである。那須氏を継いだ資隆は小山政光の絶大な力をバックとして、那須氏の再興に挺身したわけである。那須氏はもともと在地領主として成長した地方武士である。その流れを汲んで新たなる開発事業を開始する、その拠点として選んだのが、周囲に国衙領の少ない、現黒羽町大輪の地であった。そこに館を構えて所領の拡大、経営に当った。
 根拠地選定の第一条件は水田経営の適地である。この点では、大輪、長谷田は谷川の水を利用して耕作、対岸の桧木沢は豊富な湧水のある土地である。そうして当時この地帯、開拓可能の空閑地が広くあったわけである。
 第二は交通、高館城の眼下を那珂川が流れて河川交通が可能、さらに対岸の寒井・稲沢の地区を東山道が南北に走るなど、軍事・交通上の要衝地である。
 第三は馬の産地であるか、またはそこに近い土地であること。余一宗隆が乗った名馬鵜黒の駒は、たとえそれが伝説であろうと、馬がこの地の産であることは、極めて象徴的な話で、軍馬の供給源「牧(まき)」を考えさせられる。騎馬戦には、良馬が不可欠の問題であった。
 第四には武器、武具の供給である。那須郡が古代より、良質の矢の生産地であったことは、正倉院の御物が示している。特に源平の時代黒羽地方が矢の産地であったことを証するものとして、直篦(すぐの)神社(拾遺編、神社の項参照)の創建がある。また高館城下に、矢を供給した「矢組」と称する土地が二か所現にあり、また城下附近に「弓座」の姓が多い。弓を有力な武器とした当時の戦闘には、多量の矢が使用されたわけで、良質の矢竹の生産地確保は、武士たちの願いでもあった。
 資隆は右のような諸条件を考えての、高館城への進出であったと思われる。