(三) 鎌倉幕府の御家人那須氏

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 源頼朝は鎌倉に新しい軍事政権を樹立した。その政権(幕府)を支えたものは、主として東国の武士たちであった。かれらは鎌倉殿の御家人に列せられ、ある者は庄園や国衙領の地頭に任命され、ある者は守護として各地に派遣されて、それぞれ活動を展開していった。
 新たに地頭職に任ぜられて那須総領ともなった御家人那須氏の動きはどうであったろうか。那須総領として那須地区をその支配下におき、一族を各地に分知して、私営田の拡張、経営に当らせ、着々と経済力・軍事力を涵養していった。
 こうして次第に実力をつけていった那須氏は、幕府の公式記録である『吾妻鏡』にも登場して、愈々有力な御家人の一人として認められることになる。
 「御家人(ごけにん)」とは、頼朝に面謁して忠誠を誓う見参の礼をとった武士をいうのである。御家人となれば、鎌倉殿よりその身の安全の保証、所領の安堵・確認がなされる。その代償として鎌倉殿への忠誠と奉公が要求されることになる。奉公の第一は頼朝の軍団に属して戦うことである。軍事奉仕としては、朝廷警護の京都大番役、鎌倉殿を警護する鎌倉番役などがあり、また上洛や旅行等の行列には、随兵となることなどである。(『日本の歴史』)
 まず御家人としての那須氏の活躍ぶりを、『吾妻鏡』はこう伝えている。
 
建久四 癸丑年(一一九三)
三月九日、丙子、那須太郎光助拝-領下野国北条内一村、是来月於那須野御野遊之間、為其経営行之云々、

 
 『那須系図説』には、「光資、那須太郎、後肥後守、吾妻鏡、那須太郎光助ト有ハ是人ナリ。妻ハ千葉介胤明之女也。」とある。光助拝領の「下野国北条内一村」とはどのあたりであろうか。『那須郡誌』は「北条郡」の一項を設けて、詳細に論じている。その大要を記すと次のようである。
 
「櫟木文書」〈『大日本地名辞典』引用)那須北条郡稗田郷(矢板市豊田)、盞堵(さらと)村(湯津上村佐良土)、那須久隆弟朝隆居此、称稗田九郎
那須町伊王野専称寺所蔵の善光寺式阿弥陀如来立像の背銘に、
下野国北条郡那須庄伊王野郷
文永四丁卯五月日 仏師 藤原光高
   願主 左衛門尉藤原資長也

 
 この二資料を挙げ、北条郡は那須郡の別称ではない。豊田、佐良土を含んで本郡半ば以北の地区であろう、といっている。さらに、北条郡は公設の郡ではなく、郡郷の制が乱れてからの私建のものの如くである。当時、上那須、下那須に分れていたから、上那須地方を北条と言った通称であろう。名称は鎌倉時代に起ったものと見てよい、としている。
 建久四年(一一九三)、源頼朝は那須野狩の実施に当り、この地方の地頭である那須光資(吾妻鏡には光助と記す)に、上那須地方の一村を給し(当時まだ那須氏の所領でない地区があったようである)、狩の経営の準備を行なわせたのである。
 この大役を仰せ付けられた御家人光資は、その光栄に感激し、全力を挙げて経営に当ったわけである。
 
三月十五日、壬午、近日依那須野御狩、所藍沢之屋形等、以宿次人夫、壊-渡下野国云々。(『吾妻鏡』)

 
 駿河国鮎沢にある頼朝の館を取りこわし、はるばる那須野に運んで建て、頼朝の宿舎に充てたのである。宿舎の場所は、大田原市北金丸の長倉(長倉御殿のあった所)であったといわれている。三月廿一日に頼朝は鎌倉を進発した。弓馬に達し、隔心無い者、小山朝光等二十三人を選んで警固させた。
四月二日、戊戌、覧那須野、去夜半更以後入、小山左衛門尉朝政・宇都宮左衛門尉朝綱・八田右衛門尉知家、各依召献千人勢子云々、那須太郎光助奉駄餉云々、(『吾妻鏡』)
四月廿三日、己未、那須野等御狩、漸事終之間、藍沢屋形又可運還駿河国之由云々、(同右)

 
 御家人光資の鎌倉殿への奉仕ぶりがうかがわれる。四月廿三日、那須野の狩が終了し、藍沢屋形はまた駿河国に運びかえした。
 四月二日に開始し、同二十三日に終了したこの那須野の巻狩は大規模なものであった。『那須記』はこれを誇張して、大々的に報じている。獲物は大山鳴動鼠一匹の観ではあったろうが、もともと獲物を目的としたものでなく、鎌倉軍団の練武であったのだろう。この巻狩に因む物語や地名(狩野・夕狩・東小屋・南小屋・鳥目等)が現に残っている。更にこの壮挙は中央にも聞え、歌枕として多くの歌人にも詠まれている。
  道多き那須の御狩の矢たけびに
   逃れぬ鹿の声ぞ聞ゆる
         信実朝臣(『夫木集』)

  狩人の弓末ふりたてちかへども
   笠はた見えぬ那須の高萱(たかかや)
         権僧正(同右)

 那須野狩は首尾上々に終了した。この壮挙に最も面目をほどこしたのは、那須光資であった。鎌倉殿の期待に見事こたえることができたのである。その結果として、源氏の白旗を賜わり、更に地頭職を確認され、名実ともに下野における有力な御家人の一人となり、那須地方におけるその支配力も一段と高まっていった。
 さらに『吾妻鏡』の記には、建久五 甲寅年(一一九四)十月九日、頼朝は小山左衛門尉朝政の家におもむき、弓馬に堪能の士を召集して、流鏑馬(やぶさめ)の故事を諮問し、若輩にその技を習わせた。その衆の中に、小山氏、宇都宮氏、氏家氏等と並んで那須太郎光助(資)の名が見える。
 
十月九日、丙寅、将軍家入御小山左衛門尉朝政之家、朝政兄弟以下一族群参、数輩祗候云々、於此所召聚弓馬堪能寺、披覧旧記、相訪先蹤、令談流鏑馬以下作物射様給、其故実、各所相伝之家説、面々意巧不一准、仍令前右京進仲業記彼意見給、是明年御上洛之次、有御参住吉社、為果御宿願、以堪能之者、可令射流鏑馬給、京畿之輩若及見物者、定以之可謂東国射手之本歟、然者無後難之様、兼日能凝評議、有用捨、為令学其宜躰於若輩有此儀元々、其衆
 下河辺庄司行平   小山左衛門尉朝政
 武田兵衛尉有義   結城七郎朝光
 ○中略
 氏家五郎公頼    小鹿嶋橘次公業
 ○中略
 宇佐美右衛門尉祐茂 那須太郎光助

 
 同じく建久六(一一九五)年三月十日には、頼朝は東大寺に赴く。その供奉人行列の中にも、那須太郎の名が記されている。このように『吾妻鏡』の記事からみると、今や那須光資は押しも押されもしない、立派な御家人武士に成長していたのである。それから四十余年後の嘉禎三年(一二三七)六月廿三日、将軍頼経は大慈寺境内の文六堂の供養に臨んだ。その供奉の行列の中に、那須左衛門太郎(資村)の名が見える。なお那須左衛門太郎の名は、嘉禎四年二月、将軍頼経上洛の際供奉行列の廿五番に、建長二年(一二五〇)三月一日、幕府が閑院内裏造営を御家人に課したその中に、那須肥前々司として同人の名がある。寛元四年(一二四六)八月十五日に、鶴岡放生会に将軍頼嗣が臨み、その行列中に、那須次郎の名が記されている。特記すべき事項の中、次のようなのがある。
 
建長八 丙辰年(一二五六)
六月二日、辛酉、奥大道夜討強盗蜂起、成往反旅人文煩、仍此間度々有其沙汰、可警固之旨、今日被仰-付于彼路次地頭等、所謂
 小山(長村)出羽前司   宇都宮(泰綱)下野前司
 阿波前司     周防五郎兵衛尉(塩谷朝基)
 氏家余三(経朝)跡    壱岐六郎左衛門尉
 ○中略
 鳩井兵衛尉跡   那須肥前(資村)前司
 宇都宮五郎(泰親)兵衛尉 岩手左衛門太郎
 岩手二郎     矢古宇右衛門次郎
  已上廿四人
御教書云
奥大道夜討強盗事、近年為蜂起之由有、是偏地頭沙汰人等無沙汰之所致也、早所領内宿々、居-置直人警固、且有然之輩者、不自他領、不見隠之由、被住人等起請文、可其沙汰、若尚背御下知之旨、令緩怠者、殊可御沙汰之状、依仰執如達件、

   建長八年六月二日
    某殿

 
 近年、奥州街道に夜討、強盗が出没して、旅人を苦しめている由、これは偏に、沿道の地頭等の怠慢のいたすところ、早速領内の宿々に人を置いて警固せよ。若し下知に背く者あらば、格別な御沙汰があるだろう。という教書を幕府は路次の地頭等に出している。
 路次の地頭等の中に、那須資村、氏家経朝、塩谷朝基の名が見えている。
 なお、下野の夜討、強盗に関しては、同じ頃の事件で、『那須記』巻四に、「那須金沢強盗事、塩谷五月女鉄ヲ討事」という記事が載っている。
 正嘉元(一二五七)年二月ごろ、塩谷郡高原の麓に、金沢源次入道荒山という者、家子郎等八十余人、五月女狐次郎入道鉄心は五十余人を率い、随所に悪事の限りを尽していた。福原小太郎これを聞き、那須資家に告げた。資家は「郡内の乱は、郡司の無沙汰だ。早くかの悪盗を追討せよ」と、沢村・芦野・塩谷の地頭等に下知した。五月女鉄心は塩谷朝基に、金沢荒山は芦野七郎にそれぞれ討ち滅ぼされた。那須・福原・芦野・沢村・塩谷の諸氏は鎌倉に上り将軍に報告した。
 『吾妻鏡』『那須記』両者のこれらの記事を考え合わせると、一つにはこの当時、地方の治安は必ずしもよくなかったということ、二つには、那須地方は御家人那須氏宗家を中心として、分知された支流がそれぞれ地頭となり、武士の社会が形成されてきたということであろうか。
 更に『吾妻鏡』は次のように伝えている。
 
正嘉二 戊午年(一二五八)
正月一日、辛亥、晴、垸飯相州禅室(時頼)御沙汰両国司被候大庇、其外着座于庭上東西、東座
○中略
 那須左衛門尉
三月一日、辛亥、晴、辰尅、将軍家二所御進発初度
行列
○中略
那須肥前々司分子息云々
 肥前七郎

 
 右の那須左衛門尉は、肥前守資村の子息資家であり、肥前七郎は資家の弟資勝(助員とあり)のことである。
 那須肥前守資村は康元二年(一二五七)に黒羽町寺宿に光厳寺を再建した(拾遺編 寺院参照)老後隠居して、光厳寺殿と称した。法号を光厳寺殿光公大禅定門(同寺過去帳)という。