(一) 南北朝時代前半期の那須氏――足利尊氏の軍団に属して――

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 元弘三年(一三三三)五月、新田義貞の軍が鎌倉を陥落させ、北条氏は高時以下自殺して、百五十年にわたる鎌倉幕府は滅亡した。ここに後醍醐天皇親政の、いわゆる建武の中興となったのである。足利高氏は鎮守府将軍・左兵衛督に任ぜられ、天皇より御名「尊治」の一字を賜わって尊氏と改めた。最高の恩賞であった。護良親王は征夷大将軍に任ぜられ、弟足利直義は左馬頭に任ぜられた。
 非常な意気込みをもって出発した新政は、当初から混乱を招き、政務の停滞を来たした。それは、すでに定着していた旧慣習を無視したり、祈領没収に対する武士の不満や抵抗があったからだといわれている(『日本の歴史』)
 こうしたことが、かつての武家政治への郷愁を生み地方の反乱を起させたようである。こうして建武の中興の新政は次第に凋落し、挫折して、やがて南北両朝に分裂、動乱の世となるのである。
 このような時代の流れの中にあって那須氏は、足利氏の下に次第にその勢力を拡大していった。次にその足跡をたどってみよう。
  (結城文書)
     足利直義軍勢催促状写
 可被誅伐新田右衛門佐義貞也、相催一族、可馳参之状如件、
    建武二年十一月二日 左馬頭(足利直義)(花押)
     那須下野太郎(資家)殿
 
 後醍醐天皇は、武家政治の復活を目ざす足利尊氏を押えるため、新田義貞を用いた。ここに尊氏と義貞の抗争が開始される。建武二年(一三三五)八月、尊氏は中先代(北条時行)の反乱を平定すると、天皇の帰京命令をきかず、そのまま鎌倉にとどまった。これは弟直義の進言によるものである。直義は義貞討伐のため、諸国の武士に軍勢催促状を出した。前掲の「結城文書」もその一通で、那須資家に宛てたものである。
 これより前の元弘元年(一三三一)に、那須加賀権守資家は、結城上野入道・小山出羽入道・氏家美作守等東国武士と共に、足利治郎大輔高氏(尊氏)の軍に属して、楠木正成の籠る笠置城攻略戦に参加している。このことは『太平記』巻三の「笠置軍陶山小見山夜討附東国勢上洛并桜山挙義兵事」に述べられている。こうした関係から、義貞討伐の軍勢催促にも応じて、資家は一族郎党を率い出陣したようである。
 『相馬文書』には次のように記されてある。
延元元年八月相馬六郎左衛門尉胤平申軍忠事
(前文略)同月二十四日御下向之由承及候之間 宇都宮馳参候同五月一日足利為凶徒対治馳向 御敵追畢 同月八日那須城自搦手押寄 捨身命合戦間 下館追落 致合戦忠節之処 同十日胤平左肩被射抜候訖(下文略)

 
 延元元年(一三三六)といえば、この年の二月には、尊氏は新田義貞・北畠顕家の連合軍に敗れて九州に走ったが、五月九州勢を率いて東上し、摂津湊川の戦いで楠木正成を敗死させている。尊氏を敗走させた北畠顕家は陸奥に戻った。東山道(関街道)の一部を扼している那須氏の侮り難い勢力は、南朝方にとってまことに困った存在であったわけだ。そこで顕家は相馬胤平らに命じ、那須城(福原城)を攻略し、下の庄の館まで追い落したというのである。
 正平六年(一三五一)十一月、足利尊氏は弟直義を討つため、兵を率い京都を出発し、駿河の薩埵山(さったやま)に陣を取った。これを迎え撃つべく直義もまた大軍を率い薩埵山を囲んだ。薩埵山合戦である。尊氏の軍に応じるため、宇都宮をはじめとし、下野の武士団も出撃した。
 『太平記』は次のように記している。
 
○薩多山(サツタヤマ)合戦ノ事(抄出)
 去(サル)程ニ将軍已(スデ)ニ薩埵山ニ陣ヲ取テ、宇都宮(ウツノミヤ)ガ馳参ルヲ待給フ由聞ヘケレバ、高倉殿先(マ)ヅ宇都宮ヘ討手ヲ下サデハ難義ナルベシトテ、桃井播磨ノ守直常ニ、長尾(ナガヲ)左衛門ノ尉、并(ナラビ)ニ北陸道(ホクロクダウ)七箇国ノ勢(セイ)ヲ付テ、一万余騎上野国(カウヅケノクニ)ヘ被(ラル)差向(ケ)。高倉禅門モ同日ニ鎌倉ヲ立テ、薩埵山ヘ向ヒ給フ。一方ニハ上杉民部ノ大輔憲顕(ノリアキ)ヲ大手ノ大将トシテ、二十万余騎由井(ユヰ)・蒲原(カンバラ)ヘ被(ラル)向ケ。一方ニハ石堂入道・子息右馬頭(ノカミ)頼房ヲ搦手(カラメチ)ノ大将トシテ、十万余騎宇都部佐(ウツブサ)ヘ廻(サハツ)テ押寄スル。高倉褝門ハ寄手ノ惣大将ナレバ、宗(ムネ)トノ勢十万余騎ヲ順(シタガ)ヘテ、未(イマ)ダ伊豆府(ノコフ)ニゾ罄(ヒカヘ)ラレケル。彼(カノ)薩埵山ト申スハ、三方ハ嶮岨(ケンソ)ニテ谷深ク切レ、一方ハ海ニテ岸高ク峙(ソバダテ)リ。敵縦(タト)ヒ何万騎アリ共、難シ近付(チカヅキ)トハ見ヘナガラ、取巻ク寄手ハ五十万騎、防グ兵三千余騎、而(シカ)モ馬皮レ粮乏(カテトボ)シケレバ、何(イツ)マデカ其ノ山ニ怺(コラ)ヘ給フベキト、哀ナル様ニ覚エテ、掌(タナゴコロ)ニ入レタル心地シケレバ、強(アナガ)チ急ニ攻落サントモセズ、只(タダ)千重万重ニ取巻タル許(バカリ)ニテ、未矢軍(イマダヤイクサ)ヲダニモセザリケリ。
 宇都宮ハ、薬師寺次郎左衛門入道元可(ゲンカ)ガ勧(ススメ)ニ依テ、兼テヨリ将軍ニ志ヲ存ジケレバ、武蔵ノ守師直ガ一族ニ、三戸(ミト)ノ七郎ト云フ者、其ノ辺ニ忍ビテ居タリケルヲ大将ニ取立テ、薩埵山ノ後攻(ゴヅメ)ヲセント企(クハダテ)ケル処ニ、上野ノ国ノ住人、大胡(オホゴ)・山上(ヤマカミ)ノ一族共、人ニ先ヲセラレジトヤ思ヒケン。新田(ニツタ)ノ大嶋(オホシマ)ヲ大将ニ取立テ五百余騎薩埵山ノ後攻ノ為トテ笠懸(カサガケ)ノ原ヘ打出タリ。長尾孫六・同平三・三百余騎ニテ上野ノ国ノ警固(ケイゴ)ノ為ニ、兼テヨリ世良田(セラダ)ニ居タリケルガ、是(コレ)ヲ聞クト均(ヒトシ)ク笠懸ノ原ヘ打寄セ、敵ニ一矢ヲモ射サセズ、抜連(ヌキツレ)テ懸立ケル程ニ、大嶋ガ五百余騎十方ニ被レ懸散ラサ、行方モ不(ズ)知ラ成リニケリ。宇都宮是(コレ)ヲ聞テ、「此ノ人々憖(ナマジヒ)ナル事為シ出シテ敵ニ気ヲ著(ツケ)ツル事ヨ。」ト興醒(キヨウサメ)テ思ヒケレ共、「其(ソレ)ニ不(ズ)可カラ依ル。」ト機ヲ取直シテ、十二月十五日宇都宮ヲ立テ薩埵山ヘゾ急ギケル。

 なお、『岡本文書』によれば、観応三年(一三五二、北朝の年号)十二月三日、尊氏は駿河国手越宿において、小山・宇都宮・佐竹貞義・那須資忠・結城顕朝等を招いている。那須資忠も薩埵山合戦に参加していることがわかる。また、『大関家系図』(黒羽町蔵)を見ると、大関肥後守家清については、「正平六年辛卯十一月、引率那須勢駿州薩埵山後攻依軍忠為褒賞従等持院尊氏以感状御袖衣被成、御判下野国那須郡之内松野・大桶賜二邑」とある。資忠に従って那須衆も参陣し、奮戦したのである。この合戦、直義の軍は潰え、直義は尊氏の軍門に降り、翌年二月二十六日鎌倉で四十五歳の生涯を終った。
 翌正平七年、南朝方の武力行動が開始された。二月、京都と鎌倉の同時攻略の指令である。京都では足利義詮(よしあきら)は敗れて近江に逃れたが、三月には援軍を得て京都を奪還した。鎌倉においても二月、義貞の子新田義宗・義興(よしおき)がこれを攻めて占領した。尊氏は武蔵へ逃れたが、これまた援軍を得、激戦の末三月に鎌倉を奪還した。『太平記』の「新田義兵を起す事」の文に、この合戦が述べられている。那須氏は尊氏の軍に馳せ参じた。多くの武将と並んで、那須遠近守としてその名が挙げられている。資旨(すけむね)(資忠の子、資寿とも他の文献にある。早世した。)のことである。
 足利氏の内紛は深刻なものであった。内紛をひき起こしたのは、武士の家の分裂という時代の流れもあったろうが、やはり幕府内部における有力者の権力争いである。まず直義と高師直の対立抗争、それに南朝がかかわる。やがて尊氏と直義の抗争に変貌していく。そして有力守護層もそのどちらかに付いて対立抗争をはげしいものにし、内紛は複雑にからみ合い、抜き難いものとなっていった。
 尊氏・直義の兄弟の抗争は、直義の死によって終熄したかに見えたが、じつはそうではなかった。直義の養子直冬(尊氏の子)を盟主と仰ぐ有力守護層や武士たちがあった。
 南朝に降った直冬は、総追捕使に任命された。南朝が尊氏打倒を実現するためである。ここに尊氏・直冬親子の激戦が京都を舞台に展開された。文和四年(一三五五)の二月から三月にかけて、約一か月の戦闘であった。『太平記』巻三十三の「京軍事(キヤウイクサノコト)」では、その戦闘の模様を詳しく伝えているが、中でも尊氏の軍に従った那須備前守資藤と、兄弟二人一族郎従三十六騎の東寺合戦における壮烈な戦死はあわれが深い。
 『太平記』の文を次に掲げる。(抄出)
 
 三月十三日、仁木・細川・土岐・佐々木・佐竹・武田・小笠原相集(ヲガサハラアイアツマツ)テ七千余騎、七条西ノ洞院ヘ押寄セ、一手ハ但馬・丹後ト敵ト戦ヒ、一手ハ尾張ノ修理ノ大夫高経ト戦フ。此(コノ)陣ノ寄手動(ヨセテヤヤモスレ)バ被(ラルル)懸立体(テイ)ニ見ヘケレバ、将軍ヨリ使者ヲ立テラレテ、「那須五郎ヲ可(ベシ)罷向(マカリムカフ)。」ト被(ラレ)仰セケル。那須ハ此(コノ)合戦ニ打出ケル始メ、古郷(コキヨウ)ノ老母ノ許(モト)ヘ人ヲ下シテ、「今度ノ合戦ニ若(モシ)討死仕(ツカマツ)ラバ、親ニ先立ツ身ト成リテ、草の陰(カゲ)苔(コケ)ノ下マデモ御歎(ナゲキ)アランヲ見奉ランズル事コソ、想像(オモヒヤル)モ悲シク存ジ候ヘ。」ト申遣(ツカハ)シタリケレバ、老母泣々委細(ナクナクヰサイ)ニ返事ヲ書テ申送リケルハ、古(イニシヘ)ヨリ今ニ至ルマデ、武士ノ家ニ生(ウマ)ルヽ人、名ヲ措(ヲシミ)テ命ヲ不措(ヲシマ)、皆是(コレ)妻子ニ名残(ナゴリ)ヲ慕(シタ)ヒ父母ニ別(ワカ)レヲ悲シムトイヘ共、家ヲ思ヒ嘲(アザケリ)ヲ恥(ハズ)ル故ニ措(ヲシ)カルベキ命ヲ捨(スツ)ル者也。始メ身体髪膚(シンテイハツプ)ヲ我ニ受ケテ残傷(ソコナヒヤブラ)ザリシカバ、其(ソノ)孝巳(ヌデ)ニ顕(アラハレ)ヌ。今又身ヲ立テ道ヲ行(オコナウ)テ名ヲ後(ノチ)ノ世ニ揚(アグ)ルハ、是(コレ)孝ノ終(ヲハリ)タルベシ。サレバ今度ノ合戦ニ相構(アヒカマヘ)テ身命ヲ軽(カロン)ジテ先祖ノ名ヲ不可カラ失フ。是(コレ)ハ元暦(ゲンリヤク)ノ古ヘ、曩祖(ナウソ)那須与一資高(ノヨイチスケタカ)ハ、八嶋(ヤシマ)ノ合戦ノ時扇ヲ射テ名ヲ揚ゲタリシ時ノ母衣(ホロ)也。」トテ、薄紅(ウスクレナヰ)ノ母衣(ホロ)ヲ錦(ニシキ)ノ袋ニ入レテゾ送リタリケル。サラデダニ戦場ニ莅(ノゾミ)テ、イツモ命ヲ軽(カロン)ズル那須五郎ガ、老母ニ義ヲ勧(スス)メラレテ弥(イヨイヨ)気を励(ハゲマ)シケル処ニ、将軍ヨリ別(ベツ)シテ使ヲ立テラレ、「此(コノ)陣ノ戦(タタカヒ)難儀ニ及ブ。向テ敵ヲ払ヘ。」ト無(ナク)与儀(ヨギ)モ被ラレ仰セケレバ、那須曽(カツ)テ一儀(イチギ)モ不申畏(サカシコマツ)テ領状(リヤウジヤウ)ス。只今御方(ミカタ)ノ大勢共立足(タツアシ)モナクマクリ立テラレテ、敵皆勇ミ進メル真中(マンナカ)ヘ会尺(エシヤク)モナク懸ケ入テ、兄弟二人一族郎従三十六騎、一足モ不引カ討死シケル。

 
 『太平記』には那須五郎とあるが、資藤は資忠の次男で、はじめ沢村五郎資保の養子となったから、五郎と称したのであろう。後に兄遠江守資旨が早世したので宗家を継いだ。資藤の東寺合戦の奮戦ぶりは、『源威集』にも詳しく書かれてあるので次に掲げる。
 
 (抄出)
「其日備前守農祖資忠、昔奥責之時、従頼義将軍給タリシ重代白鍢輪黒糸サルヲモタカ唐丸鏙著テ太刀二帯、塗籠籐ノ弓大中黒巡作ノ廿五指タル征矢負タリシガ、蒙御掟罷出ケル時申ケルハ、敵剛ハ可打死仕、負テ再不可参トテ、右ノ脇ヨリ古ヒタル縨ヲ取掛、甲ノ緒ヲシメ、馬引寄テ打騎、七条西ヱ向ケリ、相従ケルハ叔父那須掃部助忠資、一族ニハ伊王野・葦野・福原・稲沢打列テ、二百騎トソ見ヱケルニ」(源威集下)。

 更にその最後の様子については、
 (抄出)
「資藤忠資叔父娚其外一族家人打死手負数輩也、敵モ手強戦間、打死手負同前也、敵本陣ニ納リシカハ、七条合戦ハ破ニケリ、資藤息之下少々通ケレハ、鏙ヲモ不卸、乍縨懸広戸ニ被掻載テ将軍ノ御前ヱ参タリケレハ、直ニ数箇所ノ疵被御覧テ、今度ノ振舞神妙之由有御感ケレハ、忝モ御詞耳ニ入カト覚テ目ヲハタト見開、血ノ付タル手ヲ合テ胸ニ置キ、恐入タル体ニテ打諾キ々々命ヲ堕シケル」(源威集下)。

 
討死した兄弟二人一族郎従三十六騎のうち、氏名が記されているのは次のひとびとである。(『那須系図説』『那須記』『那須郡誌』)
 資藤の弟二人は、那須六郎資方・那須七郎国方
 資藤の配下は、角田但馬守安綱、伊王野次郎左衛門尉、沢村次郎資利、森田光貞、福原大郎政隆・佐久山次郎国泰・滝田六郎資宗・芋渕三郎幹綱・堅田八郎義宗・稗田九郎朝隆・戸福寺十郎為儀・荏原三郎朝隆・味岡四郎広隆・稲沢播磨守資継・中村喜八郎重政・大嶋藤八郎・余瀬五郎らである。(但しこの中には氏名の誤りもあるらしい。)
 討死を覚悟した資藤は、配下の河田三郎隆衝を呼び、形見の品を与え、国に帰って母に戦況を報告せよと命じた。河田は那須に下って具に老母に報告した。この戦いで那須氏はひどい犠牲をはらったが、その武名をとどろかせ、やがて足利氏配下で確乎たる地位を占めるようになるのである。資藤戦死後の那須氏は、嫡子安王丸が家を継ぎ、那須越後守資世と称した。