(二) 南北朝時代後半期の那須氏――那須地方の国人の台頭――

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 南北両朝の対立、足利氏の内紛、有力守護層の抗争、地方の騒乱、そうした複雑深刻な問題をかかえたまま、足利尊氏は延文三年(一三五八)四月三十日、その波乱に富んだ生涯を閉じた。二代将軍は義詮である。幕府は有力守護層の横暴や地方の反乱のためなお苦闘が続いた。三代将軍義満の時代になって、六十年に亘る動乱がやっと終熄する。そうした情勢の後半期における那須氏の動向を見ることにする。
 京都東寺の合戦において、壊滅的な打撃を受けた那須氏はどうなったであろうか。
 資藤には子宝に恵まれていた。嫡子資世は宗家を継いだ。次男資国は幼名を国王丸といい、長じて金丸に分知せられて、根小屋館(現大田原市南金丸)を築いて住み、金丸氏を称した。後に堅田郷亀山城本丸南方の地区を修築して移り住んだ。万亀山金秀寺を建立した。子孫は大関氏の家臣となった。三男は三郎南城といい、小山氏と戦って討死と『泉渓寺記録』にはあるという。四男隆経は金枝(喜連川町金枝)に分知せられ、金枝備中守と称し、金枝氏の始祖である。五男資信は建徳元年(一三七〇)那須上荘小滝(大田原市小滝)に分知せられ、館を築いて住み、子孫小滝氏を称した。庶子資朝は熊田肥前守光家の旧館(南那須町熊田)を再興して居館とし、子孫熊田氏を称した。
 このようにして、那須氏は再び興隆を見るのであるが、これは足利氏の保護、支援があったからだといわれている。
 資世は関東管領足利氏満の配下に属して活躍し、四位少将越後守に任ぜられている。
 小山氏は藤原秀郷を遠祖とする下野の名門である。下野守義政は南朝方につき、これと境を接する宇都宮左馬頭基綱は北朝方であった。農民の水争いに端を発し、両氏は裳原(もはら)で戦ったが、宇都宮勢は敗退した。関東管領足利氏満は、弘和元年(一三八一、北朝の永徳元年)と翌二年の再度にわたって小山義政を討伐した。義政は敗れて自刃したのであった。那須氏系図の一本に、資藤の三男三郎南城が、小山氏と戦って討死とあるのは、氏満の呼びかけに応じ、那須氏も小山氏討伐に参陣したことを物語るものであろうか。
 これより以前の、延文五年(一三六〇、南朝の正平十五年)の足利義詮書状(茂木文書)によれば、那須遠江守資旨の茂木領横領事件がおきている。茂木越中入道知世が、兵を率い上洛した。その留守中に那須氏が茂木領に侵入し、その一部を奪ったというので、義詮は関東管領足利基氏をして、茂木氏所領として安堵させたのである。
 このように那須氏は、東寺合戦以後立ち直りも早く、各地に活動している。那須氏の家臣団の有力武士たちが、これを支えたものと推察できる。
 東寺の合戦の前に溯るが、資藤は尊氏の召集に応じ、三百余騎を率いて上洛、合戦を重ねて、今は僅かに百三十余騎になってしまった。南朝後村上(後醍醐)天皇と尊氏が和睦し、平和な一時期があった。資藤と弟の資方、国方とが、郷里への土産話にしたいとて、許可なしに内裏の南庭にはいって見物した。ところが折悪しく紫辰殿に出御の天皇に見とがめられ、許可なく勝手にはいりこむとは奇怪だとし、尊氏に討伐を命ぜられた。驚いた尊氏はこのことを資藤にただしたところ、それでは自分が天皇の御前で腹かっ切っておわびしようと憤然と返答した。これを傍で聞いていた家臣の大関兵衛増則(東寺の合戦に討死した家清の弟といわれる)が主の身代りとなって自害、大田原氏が介錯をした。これで事は収まったが、諸人は尊氏の武略、資藤の意気、大関の志、三人いずれ劣らぬ名誉だとほめたたえた。(『那須記』)
 この事件は当時の武士の気質を物語っているばかりでなく、那須氏の家臣団の中で、大関氏や大田原氏が、数ある那須氏支族に伍し、次第にその勢力を伸ばしてきたことを明らかにしている。なお大関氏の台頭については、項を改めて考察することにする。