1 関東八家と呼ばれて

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那須資之が関東の動乱に巻き込まれたのは、それなりの理由があったわけである。その一つは那須氏は南北朝時代から、室町時代前期にかけて、北関東の豪族として大きく成長していたのである。下野の名門小山氏は、平将門討伐の際の殊勲者である藤原秀郷を遠祖としている。鎌倉幕府には御家人として仕え、小山氏の名は『吾妻鑑』にもしば/\見えている。那須資隆は小山下野大丞政光の妹を娶って、男子十一人を儲けたことは前にも記した。小山城最後の城主小山義政は、宇都宮基綱と戦いこれを敗走させたが、関東管領足利氏満の怒りにふれ、小山祇園城を攻略され、遂に落城し、やがて自刃して果てた。弘和二年(一三八二)四月である。
 この小山義政討伐のために、足利氏満は関八州の諸将に出陣を命じた。那須資世もこれに応じ参戦して勲功を立てたので、公方方から信頼も厚くなり、同時に勢力も拡大していった。そうしてその子資氏の時代には関東八家と称せられるに至った。八家とは千葉・小山(重興)・長沼・結城・佐竹・宇都宮・那須・小田をいうのである。那須氏系図のある本には、「太郎刑部大輔叙任従四位侍従被命鎌倉沙汰所矣」
 とあって、公方足利持氏から鎌倉沙汰所に任ぜられたのである。
 第二には関東管領上杉氏憲(うじのり)(後に出家して禅秀)との結びつきである。右にみるように、資氏は持氏の信任を得て幕府に出仕することとなり、上杉氏憲からも認められ、資氏の子資之は氏憲の女婿となった。従って資之は氏憲すなわち禅秀の挙兵の呼びかけに応じ、同じく女婿である千葉兼胤・岩松満純などと共に、参戦せざるを得なかったわけである。
 直接の原因はそうであろうとも、有力守護層や豪族たちの間に生れてきた対立抗争が、やがて大きな動乱を巻き起こす、社会情勢の変革の流れの中にあって、守護も豪族も、台頭しつつあった国人・代目等の小集団も、好むと好まざるとにかかわらず、動乱の渦の中に巻き込まれていったのである。那須氏とて同然のことであった。
 これより先、資氏は応永十五年(一四〇八)四月十三日に死去している。その死去後間もなく、子の資之と資重兄弟は不和となり、那須氏は上那須(福原城の資之)と下那須(烏山城の資重)に分裂した。(後に詳述する)
 那須氏が禅秀の乱に巻き込まれたのは、上下に分裂した直後である。兄資之は禅秀方に、弟資重は持氏方につき、兄弟相争ったわけである。そのことを証する文書が残っている。
 
(沢瀬文書)
  足利持氏感状
那須加賀守資重随身 於入江庄致忠節由
里見(義弘)刑部少輔注進申 尤以神妙也 弥可
抽戦功之状如件
  応永二十三年(一四一六)十二月廿九日  (足利持氏)花押
 池沢四郎(忠藤)殿
 
(興野文書)
  某感状写
  (包紙)「龍蔵院所持之うつし、本書」
那須加賀守資重令随逐致忠節由、里見形(刑)部少輔注申、尤以神妙也、弥可抽戦功之状如件

 
 右の文書を見ると、那須資重の随身である池沢四郎忠藤(東寺の合戦で討死した那須資藤の弟資政の子孫)が、入江庄の戦いに忠節を尽した由、里見義弘から報告があった。まことに神妙なことと感じ入ったという意味の文面である。応永二十三年(一四一六)十二月といえば、足利持氏は禅秀に襲われ、辛くも虎口を脱し箱根に身を潜めていた時期である。
 そのほかに、持氏から直接那須五郎(資重)に与えた書状に次のようなのがある。
 
(那須文書)
  足利持氏書状写
祗薗城(都賀郡)攻落候、先目出候、面々下向候無程如此候之
  間、高名神妙候、委細者自海老名方可申遣候、謹言、
     九月十二日      (足利持氏)(花押)
      那須五郎(資重カ)殿
 
  足利持氏書状写
 「那須五郎殿    (足利)持氏」
注進委細披見了、随而路次無相違下著、目出候、同者祗薗城(都賀郡)事先度如被仰候、相触近所之輩令談合長沼・茂木、早速可攻落候、委細者自海老名可申遣之候、謹言、
   九月八日        (足利持氏)(花押)
     那須五郎(資重カ)殿

 これらの文書を見ると、やはり明らかに資重は持氏方について行動していたことがわかる。兄弟牆(かき)にせめぐの悲劇が、那須氏にもあったわけである。