3 うち続く動乱の中に

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禅秀の乱後、足利持氏は禅秀余党の討伐を開始した。まず千葉兼胤・武田信満の残党狩り、ついで常陸の小栗満守、額田義亮、小栗満重、下野の宇都宮持綱というように連続的であった。永享年間(一四二九~一四四一)になってからも、白河の結城氏朝、下野の那須氏資、常陸の佐竹義憲等を攻めた。幕府は佐竹氏・小栗氏・宇都宮氏等を「京都御扶持衆(ごふちしゅう)」としていたので、持氏の行動は反幕府と解された。京都では将軍義量が若死し、その後継者は義持の弟義教(よしのり)となった。鎌倉の持氏は将軍の座を期待していたが後継者からはずされたので、その憤りを幕府にぶっつけ、反幕府の軍事行動を起こすことになった。鎌倉と京都との対立が激化し、ついに永享の乱となり、永享十一年(一四三九)二月、かつては持氏に仕えていた管領上杉憲実に攻められ、持氏は鎌倉の永安寺に、一族郎党とともに自害して果てた。
 この動乱の中にあっての那須氏の動向は、『満済准后日記』や『結城文書』が伝えている。永享元年(一四二九)六月三日、幕府は持氏が白河結城氏朝を撃ったと聞いて、陸奥篠川の足利満貞や芦名氏、伊達氏等をして氏朝を援けさせた。同年八月十八日、結城氏朝・那須氏資は黒羽城に拠った。この日、幕府は結城氏朝および足利満貞の請に依って、越後・信濃・駿河三国の守護をしてこれを援けさせた。
 ここに見える黒羽城とは、大関氏の黒羽城ではない。黒羽町片田の東側を南北に連なる丘陵に築いた山城で別名亀城という。文治元年(一一八七)那須資隆の八男義隆がこの地に分知されて築いた城である。後廃城となったが、那須資藤の次男資国(金丸肥前守)は応永年間、南金丸よりこの亀城(『那須記』には山田城と記す)本丸の南方に館を構えて住んだ。氏資らは金丸氏の築いた城に拠ったと思われる。

那須氏山田城跡
(片田方面より遠望)

 また、この黒羽城とは、那須氏の重臣角田庄右衛門が、那須資隆高館城を築くに当り、その出城として築いた居館(現鎮国社の在る八幡館の地)とも考えられる。この居館、はじめ「黒羽城(くろうのじょう)」と称したが、後この地に八幡宮を建立したので八幡館(だて)と称するに至った。
 因に応永・永享の頃、大関氏は白旗城(黒羽町余瀬)を居城としていた。角田氏・大関氏は氏資方にあったと思われるが、確証はない。
 氏資らが黒羽城に拠ったという八月十八日以前、次のような文書が見られる。
 
 前越後守資之書状
去三日御礼同六日到来、委細拝見仕候畢、抑黒羽城無程被責落候之間、大慶無申計候、其上宗徒者共、不被討取候之間、本望至極存候、就其於御手、宗徒面々討死手負由承候、乍恐御心中察存候、如此之子細、罷下可申入候へ共、先〓愚状候、委細者期面謁候之間、令省略候、恐々謹言、
 八月九日          前越後守資之(花押)
   謹上  小峯殿
(有造館結城文書)

 足利持氏書状
就那須越後守合力度々合戦ニ親類・家人、或討死、或被疵候之由聞食候、神妙候、委細者自資之(那須)方可申下候、謹言、
 八月九日             (足利持氏)(花押)
   小峯参河守殿

 
 この二通の文書によれば、まず小峯参河守からの報告書は八月三日に、資之のところに届けられた。黒羽(亀城)城の落城は三日以前であろう。黒羽城に立て籠ったのは幕府方である。金丸氏が幕府方について、資之の軍と戦ったという確証は見あたらない。資之・小峯の連合軍によって、黒羽城は八月上旬攻め落されたが、その月の十八日には幕府方の氏資と、結城氏朝が落城後間もない黒羽城に拠って、鎌倉幕府の持氏方に反抗している。幕府方は落されてはまた立て籠るということで黒羽城は何回も攻略を受けたのであろうか。小峯氏は結城氏の一族、資之と氏資は親子、同族それぞれ幕府方と鎌倉方に分れて戦ったということになる。続いて翌永享二年(一四三〇)には、鎌倉府方の兵によって那須城(福原城、氏資がここに居ったのか)が攻められ、永享七年(一四三五)七月には、持氏は上杉定頼(さだより)らに命じて佐竹義憲(よしのり)や、那須氏資などを攻略させている。
 このころ、那須上の庄はまさに動乱の渦中にあったのである。

白河結城氏(小峰氏)略系図(尊卑分脈、姓氏家系辞書より)