1 上那須氏の断絶

210 ~ 212
上那須氏は資之の嫡子氏資が後を継ぎ、弟明資に伝えたが、明資早世したので更にその弟資親が家を継いだ。資親は播磨守大膳太夫に任ぜられた。はじめ男子なく女子三人、長女は宇都宮成綱に嫁し、二女は養嗣子資永の室、三女は沢村資実に嫁した。資親は白河城主結城義永の二男資永(母は那須資之の妹で、資親の妹)を乞うて、養子とし二女を配して後継者とした。しかしその後資親は男子を儲けた。この子三歳の時に山田城(もと那須八郎義隆が築いた山城で、字館(たて)に在り亀城と称す。後廃城となった)に移し、山田次郎資久と称させた。金丸肥前(亀城の南に館を構える)および大関美作守宗増(黒羽町大字片田字山田に山田城を築いて住む)の二名を後見役とした。

金丸氏居館跡
(片田方面より遠望)

 大田原出雲守胤清が資親の執事となり、佐久山・芦野・稲沢・伊王野・河田らと資永を助けて、領内の仕置をとりおこなった。
 永正十一年(一五一四)の秋のことである。資親病床に臥し次第に重くなり、臨終の枕辺に大田原出雲守・同備前守父子を召しよせて遺言した。
「我最後に臨んでかようのこといはるべきにあらねども、心底に残り空しくならば、妄執の雲晴れず六道に迷はんことを思ひ、今汝に密談なり。実子に家を譲らず、聟の資永にとらすることこそ残念なり。あはれ願はくは大関・金丸に示し合せ、資久に家をつがせてくれよかし。万事たのむ」と宣ひて、ついにはかなくなり給ふ。

(『那須記』)

 『那須記』には、「大田原出雲守父子謀反の事」として、詳しく述べている。大田原備前守資清は「資親の御遺言黙止がたく存じ候」ということで、資永を討つことを強く主張、父出雲守もついに折れて資永討伐を決意した。まず、金丸・大関と談合、ついで芦野・伊王野・稲沢・福原の諸氏と内談し、近隣の武士たちに呼びかけた。これに応じ馳せ集った者は、稲沢四郎俊吉・河田六郎資安・丈田三郎之家・稗田七郎則季・鮎瀬宗屋義昌・沼井摂津五郎・柳瀬三郎藤成・佐久山四郎・大田原・大輪・野武士には、室野井・本馬・羽田・八木沢・狩野・百村の者ども、総勢三百人ほどであった。永正十一年(一五一四)八月二日、資永討伐の軍は稲沢・伊王野を先陣として蛭田(湯津上村)の原に陣を取った。資永は大田原謀反の報を聞き、急ぎ軍備を整えた。資永が那須に来るとき、白河より随った者、関十郎義時・堺俊音房宥源・旗野藤次秀長・刈田次郎兵衛秀安・大隅川頼善房昌平・国見沢入道高義・田河太郎兵衛掾時法・石田坂石見守国隆をはじめとし、その勢五十余騎、箒川を隔ててこれを迎え戦った。激戦をくりかえし、互に勝敗あった。三日の夜大雨であった。関十郎義時と田河太郎時法は兵六人を率い、風雨に乗じて潜に城を脱け出し、少人数が残っていた山田城を襲い、資久を擒にして福原城に帰った。資永は田河に命じ資久の首を落させた。片田の金秀寺(金丸氏の菩提寺)安置の位牌に永正十一年(一五一四)戌八月三日、久高院俊童常英禅童子・山田次郎資久七才とある。資永の御台所は幼い弟の無慚な首を見て、
「御首に取付き声を上げて歎かるる、あはれといふも余りあり。資久は若年にて謀反の心よもあらじ、皆執権のものどもはかりごとにてかかる身とはなりにたり。」

 と嘆き悲しみ、守刀をとって自害し果てた。まことにあわれなことである。資永これを見て「あらいさぎよき自害かな。やがて追付申さん」とて、城内より打って出て敵勢を追い散らし、軍はこれまでなりと城内に引きあげ自尽した。義時らは屋形に火をかけ、火中に飛び入って煙となった。こうして福原城は落城した。勝ち誇って城にはいった大田原・大関・佐久山・芦野・伊王野の面々が見たものは、疑いもなき幼君資久の首であった。「後悔すれども甲斐ぞなき」と『那須記』は記している。かくして越後守資之より数えて五代にして、上那須氏は断絶してしまったのである。
 上那須氏の断絶は、大田原出雲守父子の謀反によるものだと『那須記』はきめつけている。まさにそのとおりであろう。名門上那須氏の断絶は惜しみても余りあることだが、当時主家の相続争い、家臣団がそれに関与し、左右に分れ抗争するなど、血で血を洗う陰惨な闘争が繰りかえされたことは、数多く見られたことで、なにも那須氏に限ったことではなかった。大田原氏父子の策謀に組した大関氏・金丸氏等は、主家の滅亡という悲惨な結果を招いてしまい、後悔の臍をかんだことであった。
 さて、この反乱で主役となったのは勿論大田原父子だが、大関氏の動向も見逃せない。大関氏の行動に、金丸・芦野・伊王野など那須氏の支族が見倣っている。大関・大田原は国人武士である。那須氏の家臣団の一員としてその名が見えたのは、南北朝の動乱期であった。上下那須の抗争の頃から、すでに数ある那須氏の支族を凌いで、有力武士に成長して来たのである。次の上下那須の庄の統一にも、大関・大田原の二氏は主役をつとめている。やがてこの二氏は、攻防の嵐の中を生きぬいて、国人領主から戦国大名へと脱皮していくのである。