2 上下那須の庄の統一

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宇都宮成綱は那須資親の女を妻としている。資永・資永の義兄であるから、二人の亡き後の上那須家の相続については、深い関心を持ったことは当然であろう。ある日、成綱は大田原・大関二氏を呼んで次のように言った。
「資久討たれし事不運の致す所なり。且又家亡び、夜なげきてもなほ余りあり、各を召すこと別の仔細に候はず、御身たちのはからひにて、予が弟に彼の跡を継がせて給はれ」

 これに対して、大田原・大関の二名は、
「日頃密かに聞き及べば、白川の義永大勢を催し寄せ来るよしを承り候はば、宇都宮より御加勢なくては叶ふまじ。たとへ御加勢を遣はされ候とも、路次遠く候へば思召す様には罷成間敷(まかりなりまじく)候。又沢村殿も御望み得とも、御小身に候へば叶い難く候。但資房御息男を御名代に立寄って上下の庄を合せて、白川勢を防ぎ候てしかるべしや」

 と答えている。
 成綱の申し出が、那須氏乗取りの陰謀と察知したのであろうか、大田原・大関の二名はこれを断った。
 下那須の資房は「代々相続の所領を義永にせばめられては末代までの瑕瑾」と、興野右衛門義澄を上の庄に遣わして、稲沢播摩守、伊王野次郎左衛門に伝えさせた。
 「然らば大田原・金丸・大関と内談仕り、御子息壱岐守殿を山田の城へ移し置き、大将に立て白川勢を待つべし」
 と、稲沢・伊王野両名は応じた。
 上の庄の諸将は相談し、山田城を急ぎ修築した。永正十三年(一五一六)六月七日に資房が、翌八日に子息政資がそれぞれ兵を率いて入城した。資房は上の庄の諸将に、政資を助けるべく申し付け、政資を山田城に置いて、自分は下の庄(烏山城)に帰った。
 このようにして資房は、上那須の領地を併合し、那須の総領として、上下那須の庄を支配することになったのである。
(『那須記』「資房上下那須の庄一統に合する事」)


上・下那須氏略系図