山田城では資政を擁して、大関・大田原・佐久山の諸氏が少数ながらもよく防ぎ戦った。急を聞いた稲沢播摩守・伊王野豊後守・沢村五郎・芦野意教斉および狩野・百村の野武士らが山田城の後づめに馳せ来って戦った。この日の合戦に、山田城側は兵五十人、寄手は八十三人の戦死者があったと、『那須記』は記している。この戦いで、岩城勢は夜間数百人をもって、城の西崖に山を崩し岩石を破って道をつくった。後にこれを岩城坂(注、今もその名残る)と称したという。
この攻防戦は直ちに烏山に注進があった。資房は興野長門守義隆をはじめ、千本・森田・滝田・川井・金枝・館野・山口・大桶・戸田・高岡・高瀬・熊田らの武士三百五十余騎を率い、山田城救援に向かった。この時茂木三郎および長山信濃守が、それぞれ兵を率いて加勢に参じた。
寄手の白河・岩城連合軍はこれを聞き、関孫三郎・佐貫三郎・須釜次郎左衛門に五百余騎を付けて山田城に当らせ、義永・常隆両将は千余騎を率い、那珂川を越し佐良土(湯津上村)を通過、更に箒川を渡って、資房の軍と縄釣台(なわつるしだい)(小川町大字浄法寺)に会戦したのである。
那須勢は必死になって戦ったが、圧倒的に多勢の白河・岩城の連合軍に押され、一時は資房自害を決意するほどであった。この戦闘で藤田・大関・荏原・鮎ケ瀬の活躍は目を見はるものがあり、大関は敵将白土(戸)淡路掾(じょう)を射落した。この戦に岩城は鉄砲(中国式銃)を使用したということは注目に値する。鮎ケ瀬源蔵と荏原三郎の両人が弓をもって、この鉄砲射手を射殺した。さらに鮎ケ瀬は敵将志賀備中守をも射落したのであった。
こうして二人の将を失った白河・岩城の連合軍の士気とみに弱まり、反対に那須は勢を盛り返えし、遂に連合軍は敗れ我先にと落ちて行った。永正十七年(一五二〇)八月十五日のことである。世にこれを縄釣台の合戦という(『那須記』)
なお山田城攻略軍は味方の軍が縄釣台の合戦に敗れたと聞き、本国に帰ろうと落ちて行った。この敗走軍を追討した那須勢の、金丸伊予守・同肥前守・稲沢播摩守・伊王野次郎左衛門・芦野弾正佐・大田原出雲守・同山城守・大関美作守(宗増)・河田六郎兵衛・沢村五郎等の奮戦ぶりを『那須記』は詳述している。
中世の城跡(〓)および古戦場跡(〓)
岩城常隆は縄釣台の合戦において、部将白戸・志賀の両人が討死にしたそのうっ憤を晴らすべく、翌大永元年(一五二一)十一月、白河結城の兵を合せて那須に進撃して来た。そうして宇都宮・小田・喜連川の諸氏の援兵を得、総勢三千余騎をもって、一挙に烏山城を屠ろうとしたのである。
政資は上那須の兵を率いて烏山城にはいった。資房は上川井出雲守兄弟・同大膳掾父子に命じ、烏山の出城である川井城(南那須町上川井)を修築して守らしめた。十一月十四日、岩城勢三千は川井城を包囲して攻撃した。城内の兵三百余死守して戦うこと十余日に及んだ。寄手は攻めあぐんだ。宇都宮勢の鹿沼徳雪斎の密かな申入れに従って、川井出雲守は夜半城を放棄し烏山城に入った。岩城勢は更に進んで烏山城を攻略しようとしたが、徳雪斎は烏山城の難攻不落であることを説き、兵を引くよう諫言した。寄手の諸将はこの言に従い、軍を収めて退去したのであった。その後常陸の佐竹式部大夫氏義の調停によって、那須資房と岩城常隆は和睦した。そうして資房は常隆の息女を、嫡子政資の妻に迎え、やがて孫高資を儲け、那須・岩城両氏年来の確執は解消した。
政資は上那須の兵を率いて烏山城にはいった。資房は上川井出雲守兄弟・同大膳掾父子に命じ、烏山の出城である川井城(南那須町上川井)を修築して守らしめた。十一月十四日、岩城勢三千は川井城を包囲して攻撃した。城内の兵三百余死守して戦うこと十余日に及んだ。寄手は攻めあぐんだ。宇都宮勢の鹿沼徳雪斎の密かな申入れに従って、川井出雲守は夜半城を放棄し烏山城に入った。岩城勢は更に進んで烏山城を攻略しようとしたが、徳雪斎は烏山城の難攻不落であることを説き、兵を引くよう諫言した。寄手の諸将はこの言に従い、軍を収めて退去したのであった。その後常陸の佐竹式部大夫氏義の調停によって、那須資房と岩城常隆は和睦した。そうして資房は常隆の息女を、嫡子政資の妻に迎え、やがて孫高資を儲け、那須・岩城両氏年来の確執は解消した。
(『那須記』、『下野国誌』、『那須系図説』等)