天文十八年(一五四九)九月二十七日(天文十五年五月十三日説、天文十七年九月説、天文十八年四月下旬説などがある)、宇都宮左衛門佐俊綱(尚綱)は紀・清両党二千余騎を率い、那須氏を攻略すべく喜連川五月女坂に陣取った。那須太郎修理大夫高資は、大関右衛門佐高増・大田原山城守綱清・芦野大和守資泰・伊王野下野守資宗・千本常陸介資俊・福原安芸守資則・金枝近江守義高・角田庄兵衛重利・興野弥四郎義国・稲沢播摩守俊吉等三百余騎を率いて宇都宮勢を迎え撃った。二千騎対三百騎の合戦であるから、那須勢は大軍に追立てられて危く見えた。大将俊綱は小高い所に馬を進めて下知していたところへ、伊王野勢が山を越して攻撃をかけた。伊王野氏の家臣鮎ケ瀬弥五郎実光が弓をもって俊綱を射落した。
宇都宮勢は大将討たれ、兵も数多討死して敗走したのであった。これを五月女坂の戦いというのである。その後鮎ケ瀬弥五郎実光は宇都宮俊綱を供養するため、この地に永楽十貫の料をもって石塔を建立した。世にここを十貫弥五郎坂と称した。(『那須記』、『継志集』、『下野国誌』)
五月女坂の戦では、上下の那須衆少数をもってよく戦った。そのうちで興野弥四郎義国の奮戦ぶりを伝える文書が残っている。
此度喜連川於五月坂、与宇都宮合戦之砌、貴殿依武略味方悉得勝利、剰討取大将俊綱、日出度令帰城候、為亀鏡横枕村令宛行者也、弥子孫可被申伝候、仍如件
天文十八年(一五四九)九月二十八日 高資(花押)
興野尾張 殿
天文十八年(一五四九)九月二十八日 高資(花押)
興野尾張 殿
(益子文書)