(3)千本氏の謀叛

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 これは、烏山城主那須高資が、那須氏の支族である千本城主千本常陸介資俊の手によって、千本城において謀殺されたまことに陰惨な事件である。天文二十年(一五五一)正月二十二日のことであった。
 那須政資は岩城常隆の女を娶って、嫡子須藤太郎高資を儲け、後に大田原山城守綱清の女を納れ、次郎資胤(すけたね)(森田次郎)、三郎資安(福原九郎)、および二女を儲けた。大田原綱清は太郎高資を除いて、己が娘の生んだ次郎資胤を那須の総領とすべく、密かに計画を練っていた。ところがこの謀が漏れ、これを耳にした高資は大いに怒り、森田を討伐しようとし、興野弥四郎義国に内談した。興野は森田を討つことは、上の庄大田原・大関・福原等の諸将と戦いになるからとてこれを中止させ、資胤を追放処分にする策を献じた。高資はこの言を容れ、資胤を己の代官として熊野詣をさせ、その帰国の途を要してこれを追放する計略を立てた。
 資胤は天文十八年(一五四九)五月に出発、熊野詣をすませて八月二十七日に宇都宮に着いた。そこで兄高資の陰謀を知って、那須氏同族の千本城(茂木町町田)主千本常陸介資俊のもとに身を寄せた。
 宇都宮弥三郎広綱は、父俊綱が五月女坂の戦で高資に討たれたことを遺恨に思い、かねてより高資を討とうと考えていた。広綱は千本資俊に高資を討ったなら、高根沢の地を進上しようと申入れていた。たまたま資胤が千本城に身を寄せたので、遂に高資誅戮を決意した。資俊は烏山城に赴いて、このほど良い馬を求めたので、是非ご覧いただきたいと高資を千本城に招き寄せ、酒宴を張りその酔伏したところを討殺してしまった。御供の木須大膳正も討たれ、これを聞いた高資の母は自害した。
 那須の諸将相談の結果、資胤が烏山城にはいって那須の総領となり、森田は福原九郎が継いだ。(『那須記』『下野国誌』)

那須氏略系図