永禄三年といえば、その五月には歴史に有名な桶狭間の合戦があった。織田信長の奇襲によって、今川義元は田楽狭間で討死している。世はまさに戦国時代であった。
さて芦名・那須の両軍火花を散らして戦ったが、多勢の会津軍に押されて那須勢は敗退し、大将資胤は負傷し自刄を決意するほどであった。ところが下那須より後れ馳に馳せ付けた池沢主膳・小口八郎・小滝五郎・浄法寺・館野・千本・森田の諸将が大奮戦した。これに勢を得た那須勢は盛り返して善く戦い、会津・白河の軍を破り、逃ぐるを追いかけて白河口皮籠原(かわぎはら)まで攻め入ったのである。こうして会津・白河の軍は敗退し、那須勢凱歌を挙げて帰国した。(『那須記』)
(興野文書)
那須資胤充行状
此度会津盛氏(贋名)・白川義親両大将三千余騎小田倉迄令進発之由、不取敢三百余騎馳向雖防戦、味方小勢故既我等難遁折節、貴殿重而大勢相催、命不惜一戦被申之間、不堪大敗敵軍、剰軍大将生捕、甲頭二十三討取被申事、偏如鬼神抜群忠勤ニ候、為報恩永楽八百疋之地可令当行者也、弥子孫可申伝候、為其仍如件、
(朱印 那須資胤)
那須修理大夫(資胤) ○
「天正十三年(永録三年)」六月二十八日
興野尾張守(隆徳)殿
参
那須資胤充行状
此度会津盛氏(贋名)・白川義親両大将三千余騎小田倉迄令進発之由、不取敢三百余騎馳向雖防戦、味方小勢故既我等難遁折節、貴殿重而大勢相催、命不惜一戦被申之間、不堪大敗敵軍、剰軍大将生捕、甲頭二十三討取被申事、偏如鬼神抜群忠勤ニ候、為報恩永楽八百疋之地可令当行者也、弥子孫可申伝候、為其仍如件、
(朱印 那須資胤)
那須修理大夫(資胤) ○
「天正十三年(永録三年)」六月二十八日
興野尾張守(隆徳)殿
参
この戦いの疲れがまだ回復しない同年八月に、常陸の佐竹義昭が白河の結城晴綱を攻略した際、那須資胤は佐竹を援け、再び芦名と戦ったという。まさに攻防のあけくれであった。ところがこれより数年後には、その佐竹氏と那須氏は戦うことになる。また家臣団の離合集散もあって、混沌たるものがあった。