(4)奥州小田倉合戦

216 ~ 217
 会津の芦名左京太夫盛氏は、度々那須勢と小競合があったが勝つことはできなかった。そこで白河の結城義親(関入道)に語らい、共に那須氏討伐の軍をおこそうとした。那須資胤は常陸の佐竹左京太夫義昭から情報を得て、これを迎え撃つべく、上那須の大関右衛門佐高増・芦野大和守資泰・伊王野下野守資宗・大田原山城守綱清・稲沢播磨守俊吉・金丸肥前・河田六郎等の諸将を督し、兵一千余騎を率いて白河に向かった。芦名盛氏は一千余騎、子息盛興(会津黒川城主)二千余騎、結城義親五百余騎をそれぞれ率い小田倉(西白河郡西郷村大字小田倉)に着き、那須勢と会戦した。時に永禄三年(一五六〇)三月二十六日であった。
 永禄三年といえば、その五月には歴史に有名な桶狭間の合戦があった。織田信長の奇襲によって、今川義元は田楽狭間で討死している。世はまさに戦国時代であった。
 さて芦名・那須の両軍火花を散らして戦ったが、多勢の会津軍に押されて那須勢は敗退し、大将資胤は負傷し自刄を決意するほどであった。ところが下那須より後れ馳に馳せ付けた池沢主膳・小口八郎・小滝五郎・浄法寺・館野・千本・森田の諸将が大奮戦した。これに勢を得た那須勢は盛り返して善く戦い、会津・白河の軍を破り、逃ぐるを追いかけて白河口皮籠原(かわぎはら)まで攻め入ったのである。こうして会津・白河の軍は敗退し、那須勢凱歌を挙げて帰国した。(『那須記』)
(興野文書)
   那須資胤充行状
此度会津盛氏(贋名)・白川義親両大将三千余騎小田倉迄令進発之由、不取敢三百余騎馳向雖防戦、味方小勢故既我等難遁折節、貴殿重而大勢相催、命不惜一戦被申之間、不堪大敗敵軍、剰軍大将生捕、甲頭二十三討取被申事、偏如鬼神抜群忠勤ニ候、為報恩永楽八百疋之地可令当行者也、弥子孫可申伝候、為其仍如件、
                     (朱印 那須資胤)
               那須修理大夫(資胤)  ○
   「天正十三年(永録三年)」六月二十八日
    興野尾張守(隆徳)殿
           参

 
 この戦いの疲れがまだ回復しない同年八月に、常陸の佐竹義昭が白河の結城晴綱を攻略した際、那須資胤は佐竹を援け、再び芦名と戦ったという。まさに攻防のあけくれであった。ところがこれより数年後には、その佐竹氏と那須氏は戦うことになる。また家臣団の離合集散もあって、混沌たるものがあった。