資胤は大関美作守高増の家臣松本備後通勝を召んで、小田倉の戦では上の庄の者力戦せず敗北し、我が命も危かったが下の庄の者が馳つけ、命を捨てて戦ったから難無く帰陣できた。大関美作守の謀計だから、お前が大関を討って我に見せよと誘ったのである。
松本はこれを承って帰り、高増に事の趣を告げた。高増大いに驚いて、まず己の領内の軍勢を召集した。土豪沼野源次・余瀬三郎や飯田(はんだ)・金丸・河田・亀山・野上の野武士等までが、何事であろうかと驚き騒いで馳せ集った。ついで上の庄の諸将と伊王野城に会して評定した。その時の様子。
此度小田倉の合戦ニ打負たるに依て、資胤御立腹有テ、上庄ゑ押寄、某等討セ給ハん御支度と承候、大関前(スス)ミ出申けるハ、合戦ハ雖依二時の運ニ一、彼ハ多勢、是ハ無勢、中々彼ヲ討ン事不依思も、昨日の合戦ニ勝テ成(ナシ)レ喜ヲ、今日ハ又打負、成(ナス)ハレ忠ヲ軍のならいなり、然ニ上庄打負ぬといかり給ふも無レ情大将なり、取分テ某家来ヲ呼テ、某を討候得と申付られ候、かゝる大将と組シ、身ヲ失いんより、佐竹ニ組仕シ、佐竹の二男を呼、為大将ト、合戦し給へかしと語けれハ、芦野・伊王野聞給いて、尤ニこそ存候、菟角ハ貴公御謀ニまかセ候と被申ける。
奥州草篭原并小田倉戦場図(『創垂可継』より)
『那須記』は、大関高増の決意を右のように述べている。
那須氏の家臣団のうちで、今や第一の実力者は大田原氏と大関氏である。二氏とも那須氏の支族ではない。地方の土豪から台頭してきた武士で、このころには経済力、軍事力も豊かになって那須氏宗家の思うままに頤使するわけにはいかなくなった。大田原氏は資胤の母の実家であり、資胤が宗家を継ぐことができたのも、大田原氏の陰の力があったわけである。大関氏は大田原氏とは兄弟の関係にある。美作守高増は名だたる武力家であった。真の家臣とすればこれほど頼みになる武将は他にないし、一歩誤れば恐るべき敵ともなりかねない。大田原氏も大関氏も資胤とは親戚ではあったが、両氏とも所領拡大の野望があった。世は下剋上の風潮が逆巻いている。謀略、殺戮、侵略、挑発等が横行している時代だから、資胤が疑心暗鬼を抱くのも当然だともいえるのである。
高増にしても資胤の陰謀を知った以上、己が除かれるのを拱手して待つことはない。生きるためにはむしろこちらから出て相手を打つしかない。いわゆる「誅伐に対する反逆権」(『日本の歴史』第十一巻)の行使なのである。これはなにも大関氏に限ったことではない。反逆権の行使が容認されたかどうかは別として、乱世に生きる多くの武士たちの選んだ道の一つであった。
『那須記』の記述の中でもう一つ注目されるのは、大関高増は自己の領内に動員令を下し、それに応じて土豪や野武士等が馳せ集ったということである。大関氏の軍事力は家臣団のほかに、農村の地侍を組織下に置いていたということがわかる。
(注)近世末期、大関増裕は農兵隊を組織している。
高増は伊王野城の会合で、上の庄の諸将の合意を得ると、直ちに常陸に赴き、佐竹の幕下に属し資胤と一合戦仕ると申入れた。佐竹義重は承諾し、家臣の東中務将監政義を指し向けることを約束した。
永禄九年(一五六六)八月二十四日、上那須勢は大関高増が主となり、芦野・稲沢・伊王野・金丸肥前等合せて三百余騎(この時上の庄の大関伯耆守・沼井摂津守・金丸下総守等は資胤方についた)をもって、川井を経て熊田(南那須町大字熊田)に陣した。宇都宮氏は五月女坂の敗戦以来、那須氏に恨を持っていたから、広綱は佐竹に加勢し一千余騎を出して那須氏攻略に参加した。佐竹勢は東将監政義を大将として、二千余騎をもって進撃した。茂木次郎義政の城を、ついで千本常陸守の居城を攻め落し、続ケ谷・織部を追い散らし烏山に迫った。そして神長の治部内山の会戦となったのである。那須勢は小勢ながら必死に戦った。戦いの最中に佐竹の家臣大金豊前守が那須氏に寝返った。上那須勢・宇都宮勢も後退し、佐竹勢利あらず、大将東将監は僅か二十余騎ほどになって、那須勢に包囲されてしまった。千本常陸守は東政義に降参を勧めたので、政義は那須の軍門に降った。以後この山を降参峯と称した。(『那須記』『那須家文書』『下野国誌』)
この戦いで意外にも上那須勢の戦意が燃え上がらず、脆くも後退してしまったのは、同じ上の庄にありながら、大関伯耆守・沼井摂津守・金丸下総守等が、「此度上庄引分テ、佐竹の幕下ニ属し申さん事叶まし、我等ハ御同心申かたし」(『那須記』)と言って、離反したことが、他の部将にも大きく響き、最初から足並が揃わなかったためであろう。
また宇都宮勢が一千余騎、佐竹勢が二千余騎と号しながら敗退したのは、その軍事力の大半が、臨時に動員された農兵で組織されたものではないだろうか。
佐竹氏略系図