(6)佐竹氏再度の侵攻(下境大崖山(たいがいやま)の戦い)

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 去年(永禄九年(一五六六))八月の合戦に敗れた上の庄の武将、伊王野・芦野・大関・大田原・金丸・金沢等は、その恥を雪ごうとして、佐竹左京太夫義重の援兵を頼み、境村五峯山の大崖山を向城とし、那珂川を隔てて那須資胤攻略を企図した。永禄十年(一五六七)二月十七日のことである。佐竹勢は義重自ら六千余騎を率い、大崖山に陣を取った。
 上那須勢は興野村の下瀬を渡り、大崖山の麓に野陣を張った。佐竹勢と合わせて六千五百余騎となった。那須資胤・資晴父子は総勢千五百余騎を率いてこれを迎撃した。資胤の隊は折柄増水した那珂川を一気に渡河し、稲積城の北に、千本・茂木の一隊三百余騎は稲積城南の川原にと、それぞれ布陣した。佐竹・那須勢はこれを見て、鬨(とき)を挙げて殺到し、ここに激戦が展開した。千本・茂木の隊も資胤の本陣に合流し死闘が続けられたが、勝敗決しないままにその日は暮れ、佐竹勢は大崖山に引き退き、那須勢もまた烏山に引き籠った。翌十八日、再び激戦が行なわれた。那須勢千二百余騎をもって渡河、佐竹勢はこれを阻止すべく川原に撃って出た。稲積城に籠城していた本庄三河守・千本常陸守・大俵三河守の別隊三百余騎が横から佐竹勢に攻撃をかけた。佐竹勢は退く、また巻き返えす。こうして両軍一進一退の戦闘が続いたが、佐竹勢遂に振わず、義重はこの戦い利あらずとみて軍を撤収した。十九日那須勢も烏山に引き退いた。この合戦で戦死者は、那須勢二百三十四人、佐竹勢三百二人ということであった。(『那須記』)
 大崖山(大川井山(たいがいやま))の戦いで奮戦した池沢左近に対し、資胤が与えた充行状がある。
 
(沢瀬貫一氏所蔵文書)
(沢瀬文書)
   二 那須資胤充行状(折紙)
今度佐竹義昭与於大川井山合戦之時節、其方抜郡〔群〕之働感入候、仍後代之為亀鏡、永楽五百疋之地可令充行候、弥子孫可被申伝候、如件、
    永禄十年
      二月十七日        (那須)資胤(花押)
       池沢左近(忠茂)殿

 
 佐竹勢の攻略はなお続く。同年四月十四日、佐竹義重は兵五千余騎を率いて、また下境に押し寄せて来た。稲積城の本庄三河守盛泰は防戦これつとめた。金丸下総守・大久保民部少輔・秋元越前守その他の武将等が来援、那珂川を渡って佐竹勢に攻撃をかけた。上那須の大関美作守・伊王野次郎左衛門尉隆重(伊王野氏系図では下野守資宗)・芦野意教斎(芦野氏系図では日向守盛泰)・稲沢五郎左衛門・福原安芸守資孝等四百余騎が佐竹勢に呼応し、烏山の北の谷霧ケ沢に押し寄せて烏山勢と激戦があった。しかし遂に烏山勢に撃退された(霧ケ沢の戦という)。この敗北を聞いた佐竹勢は兵を収めて常陸に帰った。上那須勢もまた撤退し城に帰って行った。(『那須記』)
 
(興野文書)
   三 那須資胤感状
今般上庄属佐竹之処、貴殿働を以令帰服之条、致大悦候、依之正宗之鎧通進之候、可被祕蔵者也、
    永禄十一年
      十月十日         (那須)資胤(花押)
        興野弥左衛門尉殿