(7)上那須の諸将烏山に帰服

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 上那須の諸将は、佐竹勢の来援を得て、これまでにしばしば那須資胤と無益な戦いを繰り返してきた。那須氏の支族興野弥三衛門義成は資胤に次のように進言した。
「上那須のものともハ近年ハ御前ヲ相背キ、佐竹の家に相属シ、度々合戦致ス事社無道ナリト申セ共、其過ヲ改ハ御寃候テ可然候なり」

 資胤これに同意したので興野は上那須の諸将を説得した。諸将は資胤に敵心のないことを誓い、烏山の金剛寿院の住持尊瑜を頼んで赦免を請うた。ここにおいて和議が成立し、那須氏の領内は静まったのである。『那須記』には、その後大関高増は剃髪し、入道末庵と号したとある。