那須資胤はまず、稲沢・芦野・大関・大田原等の上那須衆に佐竹領侵攻の計画を語った。その同意を得ると資胤は、永禄十年(一五六七)八月二十四日、森田・千本を大将として二百余騎を差添え、谷田(小川町大字谷田)の館野の領に進撃させた。資胤自らは上那須・下那須の諸将および武士たち総勢七百騎を率いて押寄せた。大金備後守重宣はこれを聞き、広瀬縄釣(馬頭町大字小口)に出城を構え、嫡子対馬守に藤田和泉掾・笹沼因幡掾を差し添え、百五十人を城に入れ、己は那須勢を横矢に射取ろうと待ち構えた。
資胤は佐良土宮内少輔の進言を容れ、広瀬縄釣城を攻めた。大金勢は川原に出て、鉄炮を打って防戦した。大関高増先頭をきって那珂川を渡り、那須勢はこれに続き、馬筏を組んで渡河し城に迫った。
那須の一隊二百余騎は那珂川を渡り、向田西大塚に陣を取って、梅平の本城に迫る。こうして両軍の激戦が続いたが、城はなかなか落ちなかった。そうしたところへ、武茂右衛門尉豊綱が三百余騎をもって攻撃して来た。資胤は佐竹の加勢で、定めし大軍であろうと思い、兵を撤収して佐良土に引き返した。この戦いで那須勢は七十三騎、大金勢は三十二騎が討死した。(『那須記』)
この縄釣の戦いは戦局小さいものであったが、過去において那須勢は佐竹に対し常に受身であったのを、今回は攻撃に出たという点で意味があったと思われる。またこの合戦で、両軍ともに鉄炮を使用している。種子島銃は天文十二年(一五四三)に伝来した。以後僅かな間に各地で使われたようである。