『下野国誌』は次のように記している。「天平元年(一五七三)発酉正月、佐竹義重水戸の江戸但馬守重通を攻落し、夫より小田讃岐入道天庵を討亡し常陸一国を切随い、其勢いに乗じて那須をも攻かたむけんと度々寄来るといえども、いまだ雌雄はつかざりけり。又武茂左衛門尉守綱・松野讃岐守篤通等も、元来宇都宮の一族なれば、年来那須と争て、合戦止(ヤム)期なかりけり。」
那須勢は佐竹との攻防ばかりでなく、宇都宮勢との合戦が続いた。天正元年二月四日、資胤は七百余騎を率いて氏家に出陣し、桜野城を攻め落し、進んで勝山城を攻めた。糟屋又左衛門等が籠城した。宇都宮氏は驚いて、千余騎を出陣させた。城は遂に落ちなかったので、資胤は兵を撤収した。(『那須記』)
また『那須譜見聞録』によれば、天正二年(一五七四)二月六日、佐竹義重は白河義親の出城を攻めたので、那須資胤は義親を援けるべく出陣し、結城晴朝らと力を合せてこれを破った。
不説斎 白川義親 書状
如承意之、今般(那須郡)向田村(佐竹)義重被致出張候間、愚之事も令同陣候、依之態預簡札候、一段祝着之至候、内々貴殿も御出陳可有之由存候之処、無其義候、如被露紙面候、来秋重而義重可被致出馬候間、其刻於御同陳者、以会面諸事可申承候条、不能具候、恐々謹言、
閏月十一日 不説(白河義親)(花押)
那須(資胤)殿
如承意之、今般(那須郡)向田村(佐竹)義重被致出張候間、愚之事も令同陣候、依之態預簡札候、一段祝着之至候、内々貴殿も御出陳可有之由存候之処、無其義候、如被露紙面候、来秋重而義重可被致出馬候間、其刻於御同陳者、以会面諸事可申承候条、不能具候、恐々謹言、
閏月十一日 不説(白河義親)(花押)
那須(資胤)殿
それから三年後の天正五年(一五七七)十月二十五日には、資胤は大金重宣の梅平館を攻撃すべく出陣した。金丸下総守が佐竹方の大金重宣を召抱えるよう、資胤に進言したがこの交渉は失敗に終ったためであった。資胤は三百余騎をもって亀山に勢揃い。芦野・伊王野・稲沢・大田原・福原・常(浄)法寺の上那須勢は、黒羽より野上を経て高(唐)松峠を越え、大山田城を攻め落したが、援軍の松野讃岐守の攻撃に遭って敗退した。この戦いで常(浄)法寺胤増が戦死した。那須勢は戦いの利あらず、烏山に帰った。(『那須記』)
天正十年(一五八二)七月二十四日、興野片里(ヘグリ)坂の合戦があった。佐竹幕下の松野讃岐守と那須方の興野とは、これまでに度々戦ったが勝負は無かったが、松野篤通は興野城を攻略すべく、七月二十三日の夜、其の勢五十余騎、雑兵ともに百八十余人を率い、片里坂に進撃した。
滝田六郎左衛門の通報により、このことを知った那須資胤は、興野に援兵五十余騎を送った。二十四日、両軍は一進一退の激しい攻防戦を展開したが、松野勢は興野城の攻略ならず、手負多数のまま遂に退いた。この戦いで鹿子畑藤三郎之経は、覚悟の討死をした。(『那須記』)