その生涯を攻防にあけくれた那須資胤は、天正十一年(一五八三)二月十一日に卒した。そして運命の人資晴が宗家を継いだ。
これより先、天正十年(一五八二)八月二日、資晴は佐竹方の武茂氏を攻略しようとして、五百騎を率い、大桶から那珂川を渡河し、久那瀬に進撃した。武茂守綱・豊綱父子はこれを愛宕山で防戦したが、大関・芦野の両勢に押され山城に後退してよく戦った。那須勢の先陣芦野は城の際まで攻めたが勝負はなかった。ところが夜になり、星豊前が資晴の本陣に忍び込んで暴れ廻るのを見てとり、守綱が三百騎をもって夜襲をしかけたので、資晴は兵を撤収し烏山に退いた。その殿をつとめたのは芦野資泰であった。
これをきっかけとして、那須勢は三たび佐竹勢と交戦することになる。天正十一年二月、佐竹は武茂守綱・大金重宣を案内として、その勢七千余騎をもって那須に進撃して来た。資晴は大関高増を呼んで防戦の計画を立てた。馳せ集った者は、大関右衛門佐高増を始めとし、大田原備前守晴清・芦野日向守盛泰・伊王野下野守資宗・館野越前守直重・丸田友右衛門正信・興野尾張守隆徳・簗瀬半兵衛宗武・益子紀六郎行正・薄井越中守以安・稲沢五郎・佐久山四郎・高瀬大内蔵・浄法寺中務・余瀬三郎・大桶三郎・河合大膳等五百余騎、茂木次郎義政七十余騎、塩谷安房守孝信八十余騎、狩野百村の野武士五百余人、合わせて一千百余人であった。
このうち大関・芦野・伊王野等は五百余人をもって、熊田(南那須町)に出て宇都宮勢に備え、資晴は五百余騎を率い、烏山川原に佐竹勢を迎撃した。那須勢は少数で苦戦したが、宇都宮勢に備えていた大関・芦野・伊王野勢が合戦に加わったので、佐竹は敗れ、東将監を殿とし退いて行った。これを世に烏山川原の合戦という。(『那須記』『下野国誌』等)
その後も資晴は東に西に、近隣の武将と戦って止む時がなかった。天正十二年(一五八四)九月には資晴三百余騎を率い、松野讃岐守篤通、同上総介資通を攻略した。松野勢は地形を利用して那須勢を攪乱したので那須勢は散々に敗北を喫した。この敗北にもめげず、資晴は重ねて松野を攻略すべく、同年十月五百余騎を率い烏山を出た。ところが佐竹は岩城常隆攻略で、武茂守綱もそれに出陣中と聞き、武茂城攻めに変更した。しかし戦い利あらず烏山に帰陣した。
同じくその年、塩谷伯耆守義孝・同安房守孝信の兄弟が不和となったので、資晴は弟安房守(資晴に属し戦功があった)を援うため、喜連川に出陣した。伯耆守を援ける宇都宮・佐竹両勢を相手としたが、那須勢は敗れ、安房守の喜連川城は落ちた。
翌十三年正月九日、資晴は大関高増と謀って塩谷伯耆守の領地に攻め入り、喜連川城の奪還を図ったが、戦い勝敗なく烏山に帰った。この塩谷攻め一連の戦いが、やがて有名な薄葉原の戦いに発展していくのである。(『那須記』『下野国誌』)