(11)那須、宇都宮と再度の戦い(薄葉原の合戦)

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 宇都宮国綱は、去る正月九日に那須勢が、塩谷伯耆守の領地に攻め入ったと聞き、天正十三年(一五八五)三月二十五日、那須資晴を討つべく、塩谷伯耆守義孝を先鋒とし、自らは紀清両党二千余騎、壬生上総守の二百余騎、芳賀入道の二百余騎、合せて二千五百余騎を率い、箒川を越えて薄葉原に進撃して来た。
 沢村五郎は早馬をもって、このことを烏山に注進した。資晴この報に接し、急ぎ領内の軍勢を招集した。馳せ集った武士は、千本常陸守・同十郎・森田太郎・本庄三河守・興野弥左衛門・滝三次郎・木須大膳正・滝田六郎・高瀬大内蔵介・各和源七・和久四郎・菱沼大学助等百余騎。資晴これを従いて出陣した。途中で加わった者は、大桶三河守・白久隼人介・高岡弥左衛門・館野越前・佐藤和泉掾信貞・上川井出雲守・荒井駿河掾・上川井大膳掾・同下総掾・熊田源兵衛・岡太郎左衛門尉・須藤弥左衛門尉・金枝近江守・入江左近掾・浄法寺中務正・福原安芸守・佐良土宮内少輔その勢は三百余騎、沢村の小丸山の谷に陣した。上の庄の諸将は、大関安碩入道高増・同土佐守清増・稲沢播磨守・伊王野下野守資宗・大田原備前守晴清・芦野日向守盛泰等三百余騎、その外に佐久山左衛門・塩谷弥七郎等、沢村薄葉西の原に陣取った。その他に狩野・百村の野武士百五十余人も馳せ参じ、その勢都合一千余騎と称せられた。
 戦いは薄葉の台で始められ、まず緒戦で那須方の先鋒塩谷弥七郎孝信は、宇都宮方の先手塩谷伯耆守義孝に打ち勝ち、それより両軍は殊死して戦った。なかでも那須方では、大田原・大関・芦野・伊王野等上那須勢の奮戦はめざましいものがあった。宇都宮方でも芳賀入道壬生義正等はよく戦った。
 伊王野下野守資宗の家臣鮎瀬弥五郎(喜連川五月女坂の戦いで、宇都宮俊綱を討ち取った武士)は、真先に進撃し宇都宮勢の本陣に切り込んだ。そうして大将宇都宮国綱を討とうとしたが、伊王野資宗は薄葉宗三郎を遣わし、これを制止させたので国綱虎口をのがれ退いた。これによって宇都宮勢は総軍潰走した。那須勢は逃げる宇都宮勢を追い、氏家に至って軍を撤去した。この合戦に那須方は二百余人、宇都宮方は三百余人の討死と伝へられた。世にこれを薄葉原の合戦と称する。以後宇都宮はまた那須氏を窺うことなかった。

薄葉原古戦場跡
(沢城跡より箒川を隔てて望む)


薄葉原戦場図(『創垂可継』より)

 戦い終って、資晴は諸将を会しその武功を称えた折に、なぜ宇都宮国綱を討つことは止めさせたかを問うたところ、伊王野資宗は次のように答えた。相州の北条氏は威を振って、近国を従えようとしているが、那須・佐竹・宇都宮は北条に随わない。宇都宮を立てて置けば、北条の押えとなる。だから国綱を討ち果さなかったと。諸将もこの遠謀もっともだとし、資晴も得心した。(『那須記』『下野国誌』『継志集』)
 なお薄葉原の合戦に戦功あった池沢左近に与えた充行状がある。
 
(沢瀬文書)
  那須資晴充行状
当廿五日於(那須郡)薄葉原、宇都宮国綱与防戦之砌、其方無比類働感入候、仍為戦功、(那須郡)下神長村之内永楽三百疋之地可令充行候、弥子孫迄可被申伝候、如件、
  天正十三年(一八八五)
    三月廿八日           (那須)資晴(花押)
      池沢左近殿

 
 去る正月九日の塩谷領攻略戦で、喜連川城を奪還できなかったので、そのうっ憤を遂げようと、那須資晴は同年七月、一千二百余騎を率い、まず乙畑城攻略を断行した。
 城主乙畑孫七は塩谷伯耆守派遣の援軍を得、三百余騎をもって防戦につとめた。攻撃軍では、大関安碩・福原安芸守・森田弾正等が特によく戦った。籠城軍は遂に力尽き、七月十三日降参を申し出たので、資晴は乙畑孫七の子息乙畑太郎を人質にとり、烏山に帰った。塩谷伯耆守と宇都宮氏は追いかけ出陣したが、時既に遅く空しく兵を引返した。以後乙畑城は塩谷孝信が支配した。(『那須記』)