千本氏は、那須資隆の十男戸福寺十郎為隆の後裔で、代々千本城(教カ岡城)を居城とし、那須氏の羽翼で武名高かった。那須資晴の時は、十代常陸守資俊が当主であった。
常陸守は大関安碩(高増)の息女を乞い請けて、嫡子十郎の妻とし、一女を儲けた。ところが姑との間が不和となり、十郎は妻を離別し大関のもとにかえしてしまった。大関高増は非常に立腹し、千本常陸守を除こうと決意した。
高増はまず那須資晴を説いた。那須高資(資晴の伯父)は、天文二十年(一五五一)正月、千本城において常陸守に謀殺された。千本氏は那須家の仇敵であるから、これを討ち取ってその怨みをはらすべきであると。資晴これをきき容れ、大関に謀を命じた。
大関高増は茂木三郎を説きふせた。それは茂木三郎の次男美濃守隆継は、千本常陸守の養子となったが、後に常陸守に男子(十郎資政)が生れ常陸守はこれを後継ぎにしようとしたので暇を乞い茂木に帰った。それにより千本氏と茂木氏は不和となったからである。高増は更に二人の弟、すなわち大田原山城守綱清、福原安芸守資孝と密議、千本常陸守討ち取りの計略を練った。
烏山の滝寺の別当をも味方につけ、天正十三年(一五八五)十二月八日、計略をもって千本常陸守資俊、同息子十郎資政を太平寺(烏山町大字滝にあり、滝寺とも称する)に招いた。何も知らない父子は、出迎えの別当に案内され奥の間にはいったところを、待ち構えていた大関・大田原・福原の三人によって討たれてしまった。従者たちも大関らの郎党の手により、大部分は切られた。こうして那須為隆以来武名をとどろかせた名門千本氏(須藤氏)は、十代資俊をもって継絶し、三百九十余年の歴史を閉じたのであった。資晴は伯父の仇を討ったことを喜び、千本氏の領地を、大関・大田原・福原の三氏にそれぞれ分け与え、また千本氏の家名は茂木三郎の次男、四郎義政に襲わしめた。千本大和守義隆である。滝寺の別当は還俗して福原安芸守の女を妻とし、大谷津周防と称したというのである。(『那須記』『那須由緒』)
なお茂木氏によって名をつがれた千本氏は、その後明治維新(十七代明隆)まで代々城主であった。