1 那須資晴

226 ~ 229
名門那須氏の長い歴史の中で、最も広い所領を有し、最も武威を天下に轟かしたのは那須資晴の時代であった。その勢力範囲は那須郡全部と、塩谷郡、芳賀郡の一部に及び、大関高増・大田原綱清・福原資孝・伊王野資宗・千本資俊等の名だたる猛将をはじめとし、強力な家臣団を擁して、隣国常陸の強大な佐竹氏、白河の結城氏、下野の武将宇都宮氏等としばしば戦を交え互いに勝敗はあったが、遂にはこれらを撃退している。
 那須氏をして最盛に押し上げたのは、武将資晴であるが、また那須氏を没落にみちびいたのもあわれ資晴であった。運命とは、歴史とは、まことに奇しきものである。
 滝寺の変後、資晴をめぐる四囲の情勢は、なお騒然たるものがあったが、天正十五年(一五八七)、沢村観音寺の住持宥弁阿闍梨の勧めに従って、佐竹氏と和睦することになった。資晴は妹を佐竹義重の子息義宣に妻せ、那須、佐竹両氏の長年の抗争は、ここに終熄することになった。
 なおこの当時の知行割は次のようであった。
 八万石烏山、一千八百石黒羽、五千石福原、一万二千四百石大田原、二千七百石伊王野、三千八百石千本、二千七百石芦野。(『那須系図説』)

 天正十七年(一五八九)十月二十六日、東北の雄伊達政宗は、弟の岩城常隆と親和し、常陸の佐竹義重攻略を計ったので、義重これを知り、七千余騎をもって岩城に押寄せた。白河の結城七郎義親は五百余騎を率い佐竹を援けた。政宗は奥州勢相集めて二万余騎をもって佐竹勢の籠る関の嶽(関山(せきさん))を囲んだ。
 佐竹の求めに応じた那須資晴は援軍を送った。政宗・常陸勢は、佐竹・結城・那須の連合軍に撃ち破られ二本松方面に敗退した。義重は勢に乗じ、政宗勢を追撃しようとしたが、資晴の言に従い、兵を休め勇を養い再挙を図るため、それぞれ本国に帰陣した。(『那須記』)
 四国・九州の征討を終った豊臣秀吉は、相州小田原城にあって関東を支配していた北条氏政・氏直を討伐すべく、天正十八年(一五九〇)三月朔日、大軍を率いて京都を出発した。そうして四月には小田原城を俯瞰する石垣山に陣した。これより先、北条氏は関東の諸大名に出陣を要請した。秀吉は小田原城を包囲している間に、東国の大名たちに参陣を呼びかけた。ある者は北条氏に組し、ある者は秀吉の陣に馳せ参じた。また静観の態度をとる者もあった。
 東国のほとんどの諸大名は呼びかけに応じ、秀吉の陣に参集した。
 
  (那須文書)
     豊臣秀吉朱印状写(折紙)
卯月十二日書状今月十五日令披見候、如来意小田原事厳被詰置之上、急度可被刎(北条)氏直首儀勿論候、然者八州城々為如見聞之条、路次無其煩候、定而近日可為参陣候間、其節可被仰聞候、尚増田右衛門尉(長盛)可申候也、
           (朱印 豊臣秀吉)
   (天正十八年)五月十五日      ○
       那須太郎(資晴)とのへ

 
 しかし那須資晴はなぜか動こうとしなかった。この時大関右衛門佐高増、大田原備前守晴清、福原安芸守資孝、千本大和守義貴(茂木四郎義政)、芦野日向守盛泰、伊王野下総守資信等は相謀って、秀吉に恭順の意を示すべく、資晴に勧め小田原への同行を求めた。資晴はこれを聴きいれなかった。これが那須氏の運命の岐路であったことを、神ならぬ身の知るよしもなかった。やむを得ず六騎は相携えて、小田原の秀吉の陣営に至り、そのご機嫌を伺ったわけである。秀吉は大いに喜んで、それぞれの本領安堵の沙汰を与えた。
 もっとも典型的な戦国大名といわれる北条氏も、天正十八年(一五九〇)七月五日、秀吉の軍門に降って、関東における一世紀に亘る活動は終焉を告げた。北条氏攻略が終ると、秀吉は直ちに奥州征討のために、同月十七日に兵を率い小田原を出発した。軍を小山に駐めたとき、那須資晴ははじめて見参した。秀吉はその遅参を怒り、知行八万石を没収して、先に小田原において秀吉に参謁した、大関・大田原・伊王野・福原・芦野・千本等に分割して与えた。烏山城は織田信雄(二万石)に与えられ(水戸城主佐竹義宣がその身柄をあずかる)、資晴は城を開け渡して佐良土に移った。(『那須記』)
 烏山城は那須資重が応永二十五年(一四一八)に築城して移り住んでから、資晴の退くまで八代百七十余年間、那須氏の居城として、難攻不落を誇ってきたのであった。ここに戦国大名としての資晴の夢は全く消え去り、我が不明をいくら悔んでも、それは詮ないことであった。
 名門那須氏の没落は、惜んでもなお余りあるものがあるが、それに代る那須七騎の時代が現出するのである。
 天正十八年(一五九〇)八月、秀吉は奥州討伐への途次、大田原備前守晴清の居城である大田原城に宿泊(二泊)した。その折に晴清は資晴(病気と称して出なかった)に代るに、その子息藤王丸(五歳)を秀吉に謁見させることに成功した。秀吉は大いに喜び、藤王丸に五千石の地を与えた。藤王丸は佐良土より福原に移った。
(那須文書)
     豊臣秀吉朱印状(折紙)
於下野国那須内合五千石事、相添目録別紙、令扶助之訖、全可領知候也、
             (朱印圏 豊臣秀吉)
    天正十八
     十月廿二日     ○
      那須藤王(資景)とのへ
       那須藤王丸 資景 知行目録
   下野国那須内知行方目録
一千七百九十五石九斗七升 ふく原・上ひる田・するかの寺・かり田・中宿・下ひる田・向宿・大ほり・わた
一五十九石三斗三升    こたね嶋
一四百十七石五斗二升   ゆた川二ケ所
一弐百十九石八斗一升   下のま たきの沢
一五百石七斗二升     やき沢 上のま わかめ田 大木内
一百弐石三斗四升     よめうち ゆミうち
一弐百四石四斗五升    中うち
一四十七石八斗四升    ミた内 たかのす
一百八十七石五斗一升   下おく沢 上おく沢
一百卅石一斗四升     かはた
一百九十弐石九斗六升   くらほね
一百九十八石二升     ひる畠
一五百廿九石六斗     浄法寺 たかの
一四百弐石四升      上河井 宮下 三ケ所
    都合五千石
                (朱印 豊臣秀吉)
    天正十八年十月廿二日    ○
               那須藤王丸(資景)

 
 佐良土に退いた資晴は、先非を悔い伏見に至り、興野清八郎の奔走により石田三成・増田長盛等に頼み込んだ。やっと秀吉に謁見を許され詫を入れたので、佐良土五千石を給せられた。(『那須記』『那須系図説』)その後の資晴は、秀吉に対しひたすら恭順の意を表したことは、次の文書によってうかがうことができる。
 
(那須文書)
      豊臣秀吉朱印状写
為歳暮之祝儀、呉服二到来、悦思食候、猶木下大膳大夫(吉隆)可申候也、
         (朱印圏 豊臣秀吉)
   極月廿六日    ○
    那須太郎(資晴)とのへ
 
     豊臣秀吉朱印状写
為端午之祝儀、帷子二 生絹、染色、到来、悦思召候、猶山中山城守(橘内)可申候也、
         (朱印圏 豊臣秀吉)
   五月四日     ○
    那須太郎(資晴)とのへ

 
 文禄元年(一五九二)正月五日、太閤秀吉は「唐入(からいり)」(朝鮮の役)の師を起した。資晴は二百五十余騎を率いて、肥前名護屋に出陣した。秀吉の死後、那須一族は徳川家康に同心した。慶長五年(一六〇〇)、家康は会津の上杉景勝征伐の軍をおこし、兵を率い同年七月、下野小山に到着した時に、那須七騎は揃って小山に赴き、各々人質を送って家康に臣従することを誓った。
 関が原の合戦の際、資晴は兵を率い江戸の守りについた。慶長七年(一六〇二)家康は資晴を憐んで一千石を加増したので、六千石の知行となった。同九年従五位に叙せられ、大膳大夫と称し、後に修理大夫に改めた。同十四年(一六〇九)六月卒した。年五十四。福原の玄性寺に葬られた。まさに波乱の生涯であり、栄枯を見せた一代でもあった。