資晴の没後、那須氏を継いだのは長子藤王丸、成人して資景という。前に秀吉より五千石の知行を与えられ、亡父の六千石その他を併せて一万四千石を食み、福原に住んだ。従五位に叙せられ、左京大夫と称した。慶長十九年(一六一四)大阪冬の陣には、平野口に出陣。また元和元年(一六一五)夏の陣に、那須七騎は奮戦し功をたてた。『継志集』には次のように載せてある。首数七十五那須左京太夫。七十大田原備前守。七十余大関弥平次。三十四伊王野下総守。三十八千本大和守。三十二福原雅楽頭。三十四芦野民部。十六備前弟大田原出雲守。三十一塩ノ谷岡本宮内。
資景は後に事に座して邑三千石を削られた。家督を子資重に譲り隠居したが、資重は三十四歳の若さで、父に先だって病没した。資重に嗣子なく、病気で参勤を怠ったとして一万石を没収され、資景には改めて五千石が給せられた。資重の後継のため、家中は五十人方二十人方の両派に分かれて抗争したが、遂に五十人方の勝利に帰し、下館城主増山弾正正利の弟、権之助が後を継いだ。那須左衛門尉資祇(すけまさ)と称し、遠江守に任ぜられ加増もされた。資祇は四代将軍家綱の伯父(資祇の姉は将軍家綱の生母於良久の方)に当るので、次弟に加増され二万石の大名となり、天和元年(一六八一)父祖の旧領烏山城に移った。(『那須郡誌』『那須系図説』等)
資祇は貞享四年(一六八七)六月二十五日病没した。後継者が無かった(長男は下館城主増山弾正正利の養子となり、次子は早世)ため、生前に津軽越中守信政(資祇の姉婿)の次男政直を養子としていたのを正式に後継者と認められた。与一資徳と称した。ところが資祇には庶子福原図書資豊というものがあって、伯父の平野丹波守長政を以って、自分は資祇の実子だから、家督相続の権があるといって幕府に訴え出た。幕府の取り調べの結果、資徳は実家の津軽越中守方に預けられ資豊も平野丹波守方に預けられた。こうして貞享四年十一月十六日、那須氏は再び烏山城を没収されたのである。(『那須系図説』)
その後元禄十四年(一七〇一)に、那須氏が古くからの名門なるをもって資徳は赦され、福原の旧邑一千石を給せられ、江戸定府となり、屋敷は本所二ツ目、元誓願寺前に構えた。
資徳より資隣・資虎・資明・資礼・資興(藩籍奉還)・資穀・資豊(当主、弘前市在住)に伝えた。(『那須郡誌』『那須系図説』等)