六氏が那須氏と並び称せられたのは、那須氏の没落(前に詳述)によって、かつての主従の関係が断たれたばかりでなく、その地位や勢力はむしろ逆転してしまったからである。
那須氏改易後の七騎の石高は次のようである。(『那須郡誌』所載による)
これより先に、那須七騎の名を掲げているのは『継志集』で、それには那須七将といっている。
一 佐竹義明下野国へ出られ候時、下野国那須七将馳向い合戦、佐竹義時悉く討負け、下野国烏山高畑と云う所にて、義時降参被申候、其時より高畑を降参の峯と言う。(以下略)
一 下野国那須七将は、那須伊王野千本大田原大関福原芦野此の七家也。
「七騎石高表」 |
(○印は那須七騎) |
文書 | 中興続武家盛衰記 | 慶長七年分限帳 | 慶長十九年(読史備要) | 那須系図説 | 下野国誌 | 慶応元武鑑 |
氏名 | ||||||
○大関右衛門佐高増 | 一万九千石 | 二万石 | 政増 二万石 | 一万八千石 | 増裕 一万八千石 | |
家系 一万三千石 | 一万八千石 | |||||
○大田原備前守晴清 | 一万二千四百十五石 | 一万二千四百十五石 | 晴清 一万二千四百十五石 | 一万二千四百石 | 一万四百石 | 鉎丸 一万四百石 |
○福原安芸守資孝 | 五千石 | 四千四百石 | 佐久山 五千石 | 三千五百石 | ||
○千本大和守義貴 | 三千八百石 | 三千八百七十三石 | 芳賀 三千八百石 | 一千五十石 | ||
○芦野日向守盛泰 | 二千七百石 | 三千八百七十三石 | 二千七百石 | 三千十六石 | ||
○伊王野下総守資信 | 二千七百石 | 二千五百三十石石 | 二千七百石 | 二千七百石 | ||
○那須修理大夫資晴 | 八万石 改易佐良土 五千石 | 資景 一万四千二十石 | 資景福原 一万七千石 | 烏山 八万石 | 八万石改易 千石 | 烏山大久保 三万石 |
改易佐良土 千石 | ||||||
大田原分知 森田大田原出雲守 | 千五百石 | |||||
千本分知 大谷津千本帯刀 | 八百五十石 |
那須衆のうち那須七騎は、はやくより那須七将とも呼ばれて、その武勇をうたわれて来たのである。烏山城主那須資晴が改易された後は大関氏がその首位に立って活躍した。
慶長五年(一六〇〇)会津(上杉景勝)の不穏な情勢を耳にした徳川家康は、会津遠征に先だって、在阪中の大関・大田原・福原・那須等の諸氏に、疾く領国に帰って城地を堅固にし、遠征軍を待つようにと命じたのである。
那須七騎は特に奥州白河口の防禦を命ぜられた。そこでそれぞれ居城を修築するなどして、守備を固めたのである。特に大田原は奥州路の要衝に当るため、皆川山城守・服部半蔵・那須資景・伊王野資友・福原安芸守・大田原出雲守・岡本宮内少輔義保等が助勢として付けられた。秀忠の家臣石川八右衛門が人夫千人を率い、大田原城の北部大久保山(竜体山)に壕を掘った。世にこれを江戸堀と称した。
黒羽城(大関資増)においては、榊原式部大輔康政が修築の奉行を命ぜられ、榊原は家臣伊奈主水を遣わし工事の督励した。この時黒羽城は面目を一新した。(『那須郡誌』『継志集』等)
慶長五年(一六〇〇)五月、徳川家康は上杉景勝討伐のため、会津遠征の軍をおこした。同七月二十二日、那須七騎は打ち揃って先発の秀忠を宇都宮に迎え、更に同月二十五日には家康を小山に迎えた。そうして七騎は徳川氏に忠勤すべき旨を申し上げたところ、家康は喜び各太刀一振、黄金十枚を与え、徳川に味方することを誓わせた。
石田三成挙兵の報に接した家康は、ここで諸将を集め会議を開き、三成討伐を決め直ちに軍を引き返すことにした。上杉景勝に対しては、結城三河守秀康・宇都宮城主蒲生秀行・那須七騎をもって当ることにさせ、また那須七騎には家康に二心ない証拠として、人質を江戸城に送らせたのである。
『継志集』には次のように記されてある。
一、下野国那須七騎衆より人質指上覚
那須修理太夫資晴 家来
大俵周防娘
同 左京太夫資景 森田弥市郎娘
高瀬弥六娘
角田庄兵衛娘
大田原備前守晴清 備前守老母
大谷甚太郎
大谷源太郎娘
家来
大関左衛門佐資増 松本惣左衛門娘
松本大隅娘
金丸杢之助娘
浄法寺弥一郎娘
津田光明寺娘
伊王野下総守資信 下総守内室
下総守弟
伊王野猪右衛門娘
家来娘二人
千本大和守義宣 大和守老母
家来娘二人
福原雅楽頭資得(保) 安芸守内室
福原右馬頭娘
家来
芦野弥左衛門政泰 民部少老母
芦野九右衛門
那須修理太夫資晴 家来
大俵周防娘
同 左京太夫資景 森田弥市郎娘
高瀬弥六娘
角田庄兵衛娘
大田原備前守晴清 備前守老母
大谷甚太郎
大谷源太郎娘
家来
大関左衛門佐資増 松本惣左衛門娘
松本大隅娘
金丸杢之助娘
浄法寺弥一郎娘
津田光明寺娘
伊王野下総守資信 下総守内室
下総守弟
伊王野猪右衛門娘
家来娘二人
千本大和守義宣 大和守老母
家来娘二人
福原雅楽頭資得(保) 安芸守内室
福原右馬頭娘
家来
芦野弥左衛門政泰 民部少老母
芦野九右衛門
関が原役が終ると、家康は那須七騎の労を賞し、それぞれに加増があった。その知行は慶長八年(一六〇三)には次のとおり(『黒羽藩戊辰戦史料』)
○黒羽 大関左衛門督資増
高 二万石
内五百石 金丸杢
同 浄法寺図書
同 松本治郎左衛門
同 松本惣左衛門
○前室(大田原)大田原備前守晴清
高 一万二千四百十五石
内五百石 大田原主水
同 大谷長左衛門
○佐久山 福原淡路資盛
高 四千四百石
内六百石 福原織部
○芦野 芦野民部盛泰
高 三千八百七十三石
内六百石 藤田九右衛門
○千本(芳賀郡茂木町) 千本大和守義貴
高 三千八百七十三石
○伊王野 伊王野豊後守資友
高 二千五百三十石
○北岡(福原) 那須与一資景
高 一万四千二十石
内八百八十石 牧野順高
四百四十石 大田原刑部
二百石 高瀬大蔵
二百石 角田兵庫
高 二万石
内五百石 金丸杢
同 浄法寺図書
同 松本治郎左衛門
同 松本惣左衛門
○前室(大田原)大田原備前守晴清
高 一万二千四百十五石
内五百石 大田原主水
同 大谷長左衛門
○佐久山 福原淡路資盛
高 四千四百石
内六百石 福原織部
○芦野 芦野民部盛泰
高 三千八百七十三石
内六百石 藤田九右衛門
○千本(芳賀郡茂木町) 千本大和守義貴
高 三千八百七十三石
○伊王野 伊王野豊後守資友
高 二千五百三十石
○北岡(福原) 那須与一資景
高 一万四千二十石
内八百八十石 牧野順高
四百四十石 大田原刑部
二百石 高瀬大蔵
二百石 角田兵庫