◎金丸肥前守資国

233 ~ 234
那須資藤の二男。幼名を国王丸といった。正平のころ金丸に分知され、根小屋館を築いて住んだ。この根小屋(ねごや)とは一説に、臥小屋(ねごや)の義で戦国時代の俗語、陣屋のこと。城館を築いてからこの名称が起ったともいい、あるいは、もと山城の麓(根(ね))にある城下の義、後に単に城下の集落を称するようになったともいう。いずれにしても館を築いた後に、この名ができたようだ。金丸の根小屋館は、もと川や用水堀を利用して、水濠を廻らし、土塁を築いた平城で、南北二郭に区画されておったが、廃城後、長い歳月の間に、水濠は埋められて水田となり、土塁は崩されて平地となったが、現在土塁の一部だけが残って、昔日の面影を僅かに伝えている。小泉氏の宅地となっている。
 またこの近い所に、規模は小さいが館址があった。一族の金丸玄蕃頭の館であったと伝えられている。
 資国は後に堅(片)田郷亀山の地を加増されたので、旧亀山城(堅田八郎義隆が築いた山城で、後に那須資久や那須政資が居城としたことのある山田城)の本丸南方の地区を修築し、館を構えて住み、子孫これを居城とした。現在金丸氏居館跡として残っている。
 資国は、堅田八郎義隆のこの地に建立した蔵六寺が中絶していたのを、応永年間(一三九四~一四二八)に再興した。万亀山金秀寺と号する。資国の法名は宗林金秀居士。金丸氏の菩提寺である。資国の兄那須資世は、応永二十一年(一四一四)に卒した。父資藤の死(正平十年、五十歳)におくれること五十九年だから、かなりの高齢であった。資国が世を去ったのも、資世とは、余り離れた年月ではあるまいと推察される。資国の女は大田原城主大田原資清の妻となった。